雑賀党鈴木氏とは? わかりやすく解説

鈴木氏 (雑賀衆)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 05:28 UTC 版)

鈴木氏
烏紋(八咫烏[1]
本姓 穂積姓藤白鈴木氏支流
家祖 鈴木重意
種別 武家
士族
出身地 紀伊国名草郡十ヶ郷、および海部郡雑賀荘
主な根拠地 紀伊国
水戸藩
著名な人物 鈴木孫一
凡例 / Category:日本の氏族

鈴木氏(すずきし)は、日本武家のひとつ。本姓は穂積氏。家系は穂積姓鈴木氏の本宗家である藤白鈴木氏の支流を称した。雑賀衆の頭目的存在で、当主は代々鈴木孫一や雑賀孫市を名乗り、直系の子孫は雑賀氏に改めて水戸藩重臣として続いた。

概要

紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園土豪たちが結集してつくっていた雑賀衆の有力な家系のひとつで、十ヶ郷の指導者的な立場にあった。

江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物が雑賀城主として数万石を領していたという話がよく取り沙汰されるが、実際に鈴木氏が居住していた十ヶ郷は雑賀城のある雑賀荘からみて川の対岸であり、信ずるに足りない。

雑賀鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは、「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れ、16世紀の半ばには鉄砲で武装した、ある程度の規模の傭兵的集団として活動していたようである。

1570年元亀元年)に織田信長大坂石山本願寺と開戦して石山戦争が起こると、鈴木孫一の率いる鈴木党は、他の雑賀衆の集団とともに本願寺の門主顕如の求めに応じて本願寺に入り、織田軍と戦った。鈴木孫一は石山本願寺に篭った雑賀衆の中でも最有力の頭目のひとりで、孫一自身も本願寺の門徒でもあったので、本願寺にきわめて信頼された。

1577年天正5年)に本拠地の雑賀が織田軍の侵攻を受けると、紀ノ川北岸にあった鈴木氏の所領は真っ先に攻撃を受けて占領され、紀ノ川南岸での戦いも劣勢であったために、鈴木氏は他の有力者たちとともに織田氏への服属を誓って降伏した。翌年には織田氏への服属を反故にすると、再び本願寺に荷担した。1580年(天正8年)、顕如が最終的に抗戦を断念し、石山本願寺を退去して雑賀の鷺森に移ると、鈴木氏もこれに従い、織田氏に服属する。これ以降、力を失った本願寺に代わって織田氏に服属しようとする鈴木氏と、それに反対する反織田派との間で争いが起こり、鈴木孫一は1582年(天正10年)に土橋氏の当主土橋守重を殺害、雑賀衆の主導権を握った。同年に本能寺の変が起こって信長が死んだため、後ろ盾を失った孫一は雑賀を逃亡の後、豊臣秀吉を頼る。小牧・長久手の戦いから文禄・慶長の役にいたる秀吉の一連の戦役に参加した豊臣家の鉄砲頭の中に、孫一を含め数人の鈴木姓の名が見える。この間、1585年(天正13年)に秀吉は紀伊征伐を行って雑賀衆を滅ぼした。鈴木佐大夫はこのとき殺されたということになっている。

孫一が歴史から名を消した後、豊臣家の鉄砲頭として孫一の兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝の活躍が見られるようになる。重朝は1600年慶長5年)に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の攻略戦石田三成方として参戦[2]。城将の鳥居元忠を討ち取る戦功を挙げた[2]。関ヶ原で西軍が敗れたために所領を没収されて牢人したものの、1606年(慶長11年)になって元忠の主君である徳川家康に召抱えられている[3]。重朝はのちに家康の末子頼房に附属されて水戸藩に移り[3]、子の重次のとき名字を雑賀に改めた[4]。重次は後継ぎとして主君頼房の子を養子に迎えて重義と名乗らせた[5]

重朝の次男重信の系列は鈴木氏を名乗り続け、重信の跡を子の重井が継いでいたが、重義に男子がいなかったことから、重井の子の重春が雑賀家を継いだ[6]。これ以降も雑賀家は水戸藩の重臣として続いている。また、雑賀家の代々の当主は孫市を通称としたという[5]

水戸藩雑賀家の後裔は、明治維新後に日光山を頼り、小来川村円光寺(現日光市南小来川)の住持に就いたといい[7]、現在も同寺の住職は雑賀姓である。


系図

雑賀衆鈴木氏の系譜は諸説あるが、以下には一例をあげる。

 
 
 
 
鈴木重長
 
 
 
 
重家
 
 
 
 
重意
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重秀 重朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴木(雑賀)重次 重信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雑賀重義 重井
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雑賀重春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

  1. ^ 鈴木 1984, p. 37, オンライン版当該ページ(国立国会図書館デジタルコレクション).
  2. ^ a b 鈴木 1984, pp. 209–211.
  3. ^ a b 鈴木 1984, pp. 211–213.
  4. ^ 鈴木眞哉『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』平凡社平凡社新書〉、2004年、165–166頁。ISBN 4-582-85236-X 
  5. ^ a b 鈴木 1984, p. 247.
  6. ^ 鈴木 1984, pp. 247–248.
  7. ^ 栃木県壬生町歴史民俗資料館企画展シンポジウム「壬生藩鳥居家の祖〝元忠〟の関ケ原」(2017年2月25日)において、円光寺住職雑賀重行は「雑賀孫市子孫」としてパネラーをつとめている(http://www.town.mibu.tochigi.jp/docs/2016040600023/files/No826.pdf)。

参考文献

関連項目


雑賀党鈴木氏

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鈴木氏」の記事における「雑賀党鈴木氏」の解説

雑賀衆鈴木氏は、戦国時代紀伊国十ヶ郷(現在の和歌山市西北部紀ノ川河口付近北岸)の平井和歌山市平井)あたりを本拠地としていた土豪鈴木氏紀ノ川対岸雑賀荘現在の和歌山市周辺)を中心に周辺荘園土豪たちが結集してつくっていた雑賀衆有力な家系のひとつで、十ヶ郷の指導者的な立場にあった江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物雑賀城主として数万石を領していたという話がよく取り沙汰されるが、実際に鈴木氏居住していた十ヶ郷は雑賀城のある雑賀荘からみて川の対岸であり、信ずるに足りない雑賀党鈴木氏本格的に歴史あらわれるのは、「雑賀孫市」の通称知られる鈴木孫一活躍した16世紀中頃以降で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期鉄砲使った戦術取り入れ16世紀半ばには鉄砲武装したある程度規模傭兵集団として活動していたようである。 1570年元亀元年)に織田信長大坂石山本願寺開戦し石山戦争が起こると、鈴木孫一率い鈴木党は、他の雑賀衆集団とともに本願寺門主顕如求めに応じて本願寺入り織田軍と戦った鈴木孫一浄光寺末の一道場の門徒代表に過ぎず雑賀一向衆指導者集団であった年寄衆よりも格下存在であったが、石山本願寺に篭った雑賀衆の中では最有力頭目ひとりで孫一自身も本願寺の門徒でもあったので、本願寺きわめて信頼された。 1577年天正5年)に本拠地雑賀織田軍の侵攻を受けると、紀ノ川北岸にあった鈴木氏所領真っ先攻撃受けて占領され紀ノ川南岸での戦い劣勢であったために、鈴木氏は他の有力者たちとともに織田氏への服属誓って降伏した翌年には織田氏への服属反故にすると、再び本願寺荷担した。1580年天正8年)、顕如最終的に抗戦断念に、石山本願寺退去し雑賀に移ると、鈴木氏もこれに従い織田氏服属する。これ以降、力を失った本願寺に代わって織田氏服属ようとする鈴木氏と、それに反対する反織田派との間で争い起こり鈴木孫一1582年天正10年)に土橋氏の当主殺害雑賀衆主導権握った同年本能寺の変起こって信長死んだため、後ろ盾失った孫一雑賀逃亡の後、豊臣秀吉を頼る。小牧・長久手の戦いから文禄・慶長の役にいたる秀吉一連の戦役参加した豊臣家鉄砲頭の中に孫一含め数人鈴木姓の名が見える。この間1585年天正13年)に秀吉紀伊征伐行って雑賀衆滅ぼした先述した鈴木佐太夫はこのとき藤堂高虎によって殺されということになっている孫一歴史から名を消した後、豊臣家鉄砲頭として孫一兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝の活躍見られるうになる。重朝は1600年慶長5年)に関ヶ原の戦い前哨戦である伏見城攻略戦石田三成方として参戦城将鳥居元忠討ち取る戦功挙げた関ヶ原西軍敗れたために所領没収され牢人したものの、1606年慶長11年になって元忠の主君である徳川家康召抱えられている。重朝はのちに家康末子頼房に附属されて水戸藩移り、子の重次のとき後継ぎとして主君頼房の子養子迎えて重義と名乗らせ、鈴木家水戸藩重臣として続いた。のちに水戸藩鈴木家名字雑賀改め代々当主孫市通称としたという。

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