陸軍特殊部隊
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第3地方軍(シリワンギ師団)司令官アレック・カウィララン大佐は、ダルル・イスラーム(イスラーム共和国建設運動)の脅威に対抗するために、第3地方軍コマンド部隊 (Kesatuan Komando TT III, 略称 Kesko TT III) を結成した。その部隊の成功に注目したジャカルタの陸軍本部でも特殊部隊創設に動き、1954年、陸軍コマンド部隊 (Korps Komando Angkatan Darat, 略称 KKAD) が創設された。ムルダニは KKAD に入隊を志願する兵の訓練教官に任命され、部隊の教育局長に就任した。1956年、KKAD は名称変更によって、陸軍空挺連隊 (Resimen Para Komando Angkatan Darat, 略称 RPKAD) となった。それから間もなくしてムルダニは中隊指揮官に任命された。 1958年2月15日、スマトラ島で分離主義者グループがインドネシア共和国革命政府 (PRRI) 樹立を宣言すると、ムルダニは RPKAD の一員として、その鎮圧作戦に加わった。1958年3月、ムルダニはプカンバルとメダンの敵戦線後方にパラシュート降下し、両都市を奪還する国軍の作戦のために準備工作を行なった。1ヶ月後の1958年4月17日、PRRI 反乱に決定的な打撃を加える「8月17日作戦」に参加した。ムルダニの次の任務は、1957年3月以来のスラウェシでのもう一つの分離主義運動、プルメスタ (Perjuangan Rakyat Semesta、全体闘争) に対処することだった。スマトラでやったのと同じように、ムルダニ率いる部隊はプルメスタに対する総力戦のための下準備を行ない、1958年6月、プルメスタ側は降伏した。 PRRI 反乱とプルメスタ運動の鎮圧が完了すると、ムルダニはアチェに配属された。1960年初頭、彼は陸軍航空機パイロットになるかどうかを考えていたが、アフマド・ヤニがそれを思いとどまらせた。ヤニはムルダニをアメリカに送り出し、フォートベニングの陸軍歩兵学校に入校させた。そこでムルダニは歩兵将校向けの上級課程を受講し、第101空挺師団の訓練に参加した。 1961年にムルダニが帰国すると、国軍は西イリアン奪還作戦に向けた準備を始めていた。ムルダニの最初の任務は、空挺兵の訓練、すなわち敵戦線後方にパラシュート降下し、敵勢力圏内に潜入する、そうした任務が求められる兵種を育てることであった。数ヶ月後、その潜入作戦は具体的な成果を挙げられなかった。1962年5月、ムルダニは RPKAD と陸軍戦略予備軍 (KOSTRAD) の兵によって編成されたパラシュート降下部隊を率いる任務を与えられた。1962年6月末に西イリアン上陸に成功し、そのまま部隊を率いて戦闘を指揮した。オランダ海兵隊の部隊相手の小競り合いは、国際連合が1962年8月に介入して、西イリアンの帰属先をインドネシアにするという決定が下るまで続いた。停戦になると、ムルダニは西イリアンの全てのゲリラ部隊を担当する地位に就いた。 1964年にムルダニはジャカルタに戻った。西イリアン作戦での彼の功績はスカルノの目に留まり、スカルノは彼を大統領護衛官にしたがり、さらに娘の一人を彼に嫁がせたいとさえ思っていた。ムルダニは自分の地位をわきまえて、二つの申し出を辞退した。 1964年、ムルダニは RPKAD 大隊を率いてボルネオに派遣された。マレーシア対決の一環として、マレーシアとイギリス軍部隊相手にゲリラ戦を戦うためだった。しかし、ボルネオで過ごした時間は短く、9月にはジャカルタに戻った。そこで再びムルダニはその後の経歴をどう伸ばしていくかという岐路に立たされ、ボルネオでの領域作戦司令官としての経歴か、駐在武官か、のどちらかを選ぶことにした。彼は後者の選択肢を選び、北京への配属を望んだ。 1964年末に開かれた RPKAD 将校のある会議にムルダニも同席を求められた。この会議の議題は、RPKAD から不具となった兵を解雇することについてだった。ムルダニはそれに反対した。ムルダニが反対したという知らせはヤニ陸軍司令官に伝わった。ヤニはムルダニを呼び出して、その不服従を責めた。ムルダニを RPKAD から KOSTRAD へ異動させる、とヤニが命令を下したことで、会議は終了した。1965年1月6日、ムルダニは RPKAD 大隊の指揮権を手放した。
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