開園から動物園・水族館の営業終了までの経緯
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「みさき公園」の記事における「開園から動物園・水族館の営業終了までの経緯」の解説
当園および前園(みさき公園駅の駅前区域)は、都市公園法における都市公園に当たる。 元来は大阪ゴルフクラブ(1938年開業)が所有していた土地(24万坪)の一部で、第二次世界大戦中の1944年4月1日から、ゴルフ場の施設と合わせて大日本帝国陸軍に接収されていた。終戦直後の1945年8月24日付で接収を解除されてからは、大阪府への移管を経て、農地改革の一環で13万坪分の敷地が日本国政府に買収。農地として、政府から一般の耕作者に解放されていた。大阪ゴルフクラブでは、営業の再開に向けて、国有農地の耕作者に対する離農交渉と並行しながら、用地の確保・復旧工事に着手。国有農地以外の敷地(11万坪分の開拓農地)を9ホールズのコースに改造したうえで、1952年10月に営業の再開へ漕ぎ着けた。 しかし、解放農地のゴルフ場への転用が農地法に抵触することを農林省(現在の農林水産省)から指摘されたため、大阪ゴルフクラブは解放農地の転用を断念。地元の関係者や南海電気鉄道(南海)と共同で協議や研究を重ねた末に、「ゴルフ場のある南淡輪地区に『大阪府民のレクリェーション施設』として都市計画公園(泉岬公園)を建設することを前提に、ゴルフ場を『公園の緑地帯』として認可を受けることによって、国有農地の払い下げと開拓農地の転用許可を得るしかない」との結論に達した。 上記の結論に沿って許認可の手続きが進められた結果、日本政府は、(ゴルフ場の敷地分を含む)公園指定区域内の開拓農地を南海へ貸し付けることを1955年10月に認可した。この決定を受けて、南海は同年12月から泉岬公園の建設に着手。指定区域内で都市公園施設(自然動物園、自然水族館、売店、食堂など)を設置する許可を後に得たため、地元自治体の岬町(近隣4ヶ町村の合併によって1955年4月1日に誕生)が公園の敷地を無償で借用する旨の契約を結んだうえで、「みさき公園」という名称での開業に至った。このため、南海と岬町の契約では、当園を「借地公園」として扱っていた。 南海は2019年3月26日に、翌2020年3月31日付で当園の事業から撤退する方針を発表。大阪府内外の複数の事業者に対して運営の引き継ぎを打診してきたが、合意に至らなかった。2019年7月には、遊園地の営業終了に向けて準備を進めていることを岬町に説明。説明を受けた岬町の田代堯町長によれば、「当園の運営で毎年3億円規模の赤字を出していた」とのことで、同社の2017年度決算では約33億円の減損損失を計上していた。 園内と前園を合わせた総面積は約33.6ヘクタールで、動物園・水族館・遊園地の運営終了を発表した2020年2月の時点では、20億円の資産価値が見込まれていた。ただし岬町では、南海以外の運営者による「みさき公園」の存続を模索。上記の契約に沿って、敷地と一部の建物を無償で譲渡することを南海に強く要請した。当園で飼育されてきたイルカや大型動物については、「維持費が多額なので、南海の事業撤退後に岬町で全額を賄えば、町の財政が破綻しかねない」として、アドベンチャーワールドなどの施設へ譲渡されることが決まった。 ちなみに、南海ではかつて、大阪府大阪狭山市の高野線沿線地域で「さやま遊園」を当園の姉妹遊園地として運営。2000年3月31日の閉園を経て、同年12月23日の高野線ダイヤ改正を機に、同線にある最寄り駅の名称を「狭山遊園前」から現在の「大阪狭山市」へ改めた。当園については、遊園地・動物園・水族館の営業終了時点で「岬町立みさき公園」としての再オープンが検討されていたため、南海では運営の終了後も「みさき公園」という駅名の使用を続けている。その一方で、大阪ゴルフクラブは、前述した開拓農地を18ホールズのコースに再整備。1953年7月24日から営業を完全に再開すると、農林省による開拓農地の全面払い下げ(1960年)などを経て、現在に至るまで営業を続けている。
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