選手時代経歴
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「レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ」の記事における「選手時代経歴」の解説
15歳でフラメンゴのユースに入団し、17歳でトップチームでデビューを果たした。当時のフラメンゴにはジーコ、レアンドロ、ベベット、レナト・ガウショなどの名選手が在籍しており、デビューイヤーのブラジル全国選手権で優勝した。1990年、サンパウロFCに移籍すると、彼やライー、その他の若きタレントたちはテレ・サンタナ監督からesquadrão tricolorと呼ばれ、自身2度目の全国選手権制覇を果たした。1991年にはスペインのバレンシアCFに移籍したが、2年後の1993年にサンパウロFCに復帰、移籍したライーに代わる10番として、同年のコパ・リベルタドーレスで優勝し、インターコンチネンタルカップでは後に移籍することになるACミランと対戦、トニーニョ・セレーゾのゴールをアシストしてクラブ世界一に貢献した。 鹿島アントラーズ 1994年、ジーコからの誘いを受け、Jリーグの鹿島アントラーズに移籍。1994年8月13日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めた。1995年のJリーグ・ニコスシリーズ1995年11月1日、第19節横浜F戦で決めた、5回のリフティングでディフェンダーを振り切った末のシュートは語り草となっており、2013年のJリーグ20周年企画「Jクロニクルベスト」では、過去20年のベストゴール第1位に選出された。1996年のヤマザキナビスコカップ4回戦、2ndレグ、名古屋グランパス戦で決めたゴールが鹿島でのラストゴールとなった。鹿島での最後の出場は7月10日のヤマザキナビスコカップ5回戦、ヴェルディ川崎戦の2ndレグ。3年間でリーグ戦通算49試合出場30得点という成績を残した。1996年にはフランスの名門パリ・サンジェルマンFCから移籍のオファーが来たため、鹿島を離れ難い心境からジーコに相談したところ、ジーコはレオナルドの将来を考え移籍を勧めた。その後、1999年10月、ロベルト・バッジョと共に国立霞ヶ丘競技場で開催されたJOMOカップのゲストプレイヤーとして来日。外国籍選手選抜チームである「ワールドドリームス」の一員として参加し、久しぶりに日本のファンの前でプレーした PSG 1996年夏、移籍したユーリ・ジョルカエフの代役として、パリ・サンジェルマンFCに移籍し、UEFAカップウィナーズカップ準決勝のリヴァプールFC戦ではチームを勝利に導くゴールを決めた。ここでは左サイドバックではなく、左サイドハーフやプレーメーカーなど中盤のポジションでプレーすることが多かった。 ACミラン 1997年夏、イタリアのACミランに移籍金850万ユーロで移籍した。卓越したプレーを見せ、1998-99シーズンは股関節炎のためフル出場は少ないものの、27試合12得点を記録してリーグ制覇に貢献した。4シーズンで177試合に出場して22得点を決め、ブラジル帰国を決めた2001年、ミラノでのホーム最終戦では、選手全員に「ありがとう、レオ」のTシャツを着て送り出された。去り際に「(移籍しても次は)イタリアでは絶対にプレーしない。マルディーニやバレージがいなかったとしても、ミラン相手に戦えない」という言葉を残した。ACミラン退団後は母国のサンパウロFCやフラメンゴでプレーし、一度は現役を引退するものの、シルビオ・ベルルスコーニ会長、アドリアーノ・ガッリアーニ副会長からの強い要望により、2002年10月から短期間だけACミランでプレーして現役生活を終えた。
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選手時代経歴
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1977年、地元のクラブ・オッフェンバッハでキャリアをスタート。その後、1860ミュンヘン、ヴェルダー・ブレーメンに在籍し、1982-1983シーズンにはドイツ・ブンデスリーガ得点王に輝くとともに、西ドイツ年間最優秀選手にも選出。ドイツを代表するストライカーとなった。 奥寺康彦とはヴェルダー・ブレーメンで共にプレーした。 1987-88シーズン、セリエA・ASローマに移籍、ここでは通算198試合68ゴールの成績を残した。1990-91シーズンのUEFAカップではラウンド16のボルドー戦、準々決勝のアンデルレヒト戦でそれぞれハットトリックを決めるなど、同シーズンの大会最多得点となる10ゴールを決め、チームの同大会の決勝進出に貢献(決勝ではインテルに敗れた。)、同シーズンのコッパ・イタリア決勝のサンプドリア戦では1stレグ、2ndレグ共にPKを決めて優勝を果たすなどチームに貢献し、2014年にチームの殿堂入りを果たした。 1992-93シーズンにはパパンの後釜としてマルセイユに移籍、リーグでは開幕戦となったトゥールーズ戦でのゴール、トゥーロン・ヴァール戦でのハットトリックを含め18ゴールを決め、リーグ優勝に貢献(後に取り消しされた。)更にUEFAチャンピオンズリーグではゴールこそ2ゴールであったが、6アシストを決めて決勝進出に貢献、決勝でACミランを破り優勝を果たした。同年にはヴェルディ川崎入りが決定したとの報道もあった。 1994-95からバイエル・レバークーゼンに移籍、ラストシーズンは32試合10ゴールの成績を残し、ブンデスリーガ1部では232試合132ゴール、2部では111試合55ゴールの成績を残した。 ドイツ代表としては、1986 FIFAワールドカップでは3ゴールを決め準優勝に貢献(準決勝のフランス戦で1ゴール、決勝のアルゼンチン戦では後半開始から出場し1ゴール1アシストを決めたが、2-3と敗れた。)、1990年ワールドカップイタリア大会ではグループリーグで3ゴールを決めるもその後ノーゴールが続いたが、決勝のアルゼンチン戦ではPKを奪取、これをブレーメが決め1-0で勝利)、1994年ワールドカップアメリカ大会では直前に代表へ復帰し、ラウンド16のベルギー戦で2得点を挙げた。 ユーロには1984年、1988年、1992年の三大会でプレー、1992年大会ではグループリーグ初戦のCIS戦で怪我を負い、帰国した。ドイツ代表では通算90試合出場47得点を記録した。
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