輸送力改善の施策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:22 UTC 版)
改軌によらない輸送力増強の施策として種々の項目が実施された。その中にはリンク式(ネジ式)連結器の自動連結器への一斉取り替え(1925年)など、世界に例を見ない大規模かつ効果の大きいものもあった。これらの改善は1910年代から1920年代に行われ、その結果1930年代の『黄金時代』が到来することになる。以下、この時代に実行された施策を解説する。 幹線の複線化 - 主要幹線の東海道本線が1913年、山陽本線が1928年に全線複線化された。また東京や大阪の近郊区間には、並行する別線(電車線、いわゆる複々線化)が建設された。 急勾配区間の改良 - 最大規模のものとして、東海道本線の御殿場廻りから丹那トンネル経由への切り替えが挙げられる。勾配の改善によるスピードアップと共に、勾配用補機の連結・解結による停車も解消し東海道線の輸送力は大幅に向上した。 軌道強化 - レールの重軌道化(レールを重い頑丈なものに取り替えること)、バラストの砕石化(丸石よりも角のある石の方が石同士の噛み合わせが良いのでバラストに適している)等により重たい列車を高速で走らせることができるようになった。 リンク式(ネジ式)連結器の自動連結器への一斉取り替え - 1925年7月17日、すべての貨物列車を運休させて、全車両の連結器を交換した(客車は夜間に取り替えて運転した)。交換した車両数は機関車約3,000両、客車約6,000両、貨車約25,000両であった。強度と安全性に優れ連結解結が容易な自動連結器に切り替えた結果、作業の迅速化と安全化、作業性の向上などが達せられた。 客車や貨車への空気ブレーキの設置 - 電車は早くから圧縮空気を使う空気ブレーキを使用していたが、蒸気機関車の牽引する客車は非力な真空ブレーキを使っていた(貨車にはブレーキの装備は無く、機関車と車掌車で制動していた)。列車への空気ブレーキの設置は1922年頃から始まり、1930年にはすべての客車が空気ブレーキに切り替わった。ブレーキ力の強化により運転速度を高くすることができた。貨車へのブレーキ設置は徐々に進展したが、未設置車は第二次世界大戦時まで残存した。 自動信号機の設置 - それまでは駅間単位の閉塞方式で、ひとつの駅間に1列車しか走れなかった。自動信号機を設置して閉塞区間を短くすれば列車運行本数を増やすことができ、増線しなくても大幅な輸送量増大が図れる。まず、1921年に横浜駅 - 大船駅間で腕木式自動信号機を設置、1925年以後に順次現在のような色灯式に取り替えられていった。 停車場の機能分化 - 鉄道が開設された当初は、ひとつの停車場が旅客扱い・貨物扱い・列車の編成組み換え・車両基地のすべてを兼ねていた。しかし輸送量が増えてくると、各々の機能を分化することが必要になった。例えば大阪駅は旅客扱いのみに特化し、貨物列車の走る線路は別線(北方貨物線)が建設され、大阪駅構内に貨物列車が入らなくなった。別線から引き込み線で梅田貨物駅が作られ、別線沿いに旅客車の車両基地(宮原操車場)が設けられた。少し京都寄りには貨物列車を編成する広大な吹田操車場が建設された。 幹線やトンネル区間の電化 - 1919年に、重点国策として「石炭資源の確保と河川の水力発電の開発」が決定された。当時の国鉄は蒸気機関車用に大量の石炭を使用しており、国策に沿って幹線やトンネル区間の電化を従来以上に進めることとなった。各区間の電化状況は次の節にて解説する。
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