輸送力強化と阪急との競合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 17:57 UTC 版)
「阪神本線」の記事における「輸送力強化と阪急との競合」の解説
大正に入って、第一次世界大戦の辺りになると尼崎が工業都市化し、また西宮や芦屋付近は住宅地となって、乗客数は急増した。しかし軌道法に基づき単行運転を強いられた阪神電気鉄道では輸送力強化は容易でなく、苦肉の策として半急行として阪神間を四区間に分割、そのうち一区間を通過する電車を設定した。これによって阪神間58分へのスピードアップが果たされるとともに車両の運用効率が上がり、運転間隔を詰め2割の輸送力強化へつなげることができた。 それでも、抜本的な改革となる増結運転を実施するための交渉は内務省など監督官庁の間で続けられ、1913年に申請を出した後、まず専用軌道区間で、 1921年からは全線での2両運転が許可された。これには大阪府と兵庫県の知事が政府に沿線住民の陳情書を提出するなどの働きかけも行っている。またこれに伴い、1920年には総括制御が可能な301形が投入され、2両運転開始とともに1921年11月7日同線初の急行電車(阪神間56分)も設定されている。 なお、1920年に並行して阪神急行電鉄(阪急)神戸本線が開通し、「速くて空いている阪急電車」のキャッチコピーで梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 神戸(上筒井)駅間を50分→25分(1934年7月より)で結ぶようになると、梅田駅 - 三宮駅(現在の神戸三宮駅)間に60分前後を要していた阪神電気鉄道では危機感を強め、線形の関係でスピードアップは容易でなかったものの、1933年(昭和8年)までに併用軌道を廃して全線を専用軌道化して全線を35分で走破する特急の運転を開始(野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅に停車)し、さらには「またずにのれる阪神電車」をキャッチコピーとして電車の頻発運転(4分毎に急行→特急と普通を運転)も行い、対抗した。 また都市間のみならず沿線でも、阪急とは激しい乗客誘致合戦が繰り広げられた。詳しくは阪神急行電鉄#開業後の阪神電気鉄道との対立を参照のこと。
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