軍人勅諭と日清・日露戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 10:29 UTC 版)
詳細は「軍人勅諭」を参照 1882年(明治15年)には軍人勅諭が明治天皇より発布された。 日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令が「生きて虜囚の辱を受けず」の原型との指摘もある。 敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ。 — 1894年8月13日、山縣有朋、平壌にて 日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を容易く話したため、これが問題となり、以降「捕虜になっても敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底されたともいう。また、明治初期以降の欧化主義への反動から明治20年代より国家主義・日本主義が流行していたが、日清・日露戦争の勝利の影響で”皇道的武士道”が登場する。1905年(明治38年)に井上哲次郎は『武士道叢書』を発表、戦国時代の戦陣訓や葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」等を収めたうえで、日清日露戦の勝利は日本古来の武士道によるとし、天皇への唯一無二の忠誠を唱え、忠義や滅私奉公、国家のためには死をも厭わぬものとして武士道を解釈した。これはのちに1942年(昭和17年)に『武士道全書』へと継承され、太平洋戦争における「皇道的武士道」へ影響を与えた。しかし捕虜となった将兵に対しても捕虜となるまでの戦功に応じて適宜勲章を授与しており、無条件に捕虜=不名誉とされていた訳ではない。 また俘虜の待遇に関する条約(ジュネーヴ条約)を調印しながら批准しなかった理由のひとつとして、軍部による「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と反発した例(官房機密大一九八四号の三『俘虜の待遇に関する千九百二十七年七月二七日の条約」御批准方奏請に関する件回答』)や、1929年の「万国赤十字会議関係一件」では 帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し外国軍人の観念においては必しも然らず従て本条約は形式は相互的なるも実質上は我方のみ義務を負う片務的なものなり…俘虜に関する優遇の保証を与えることとなるを以てたとえば敵軍将士が目的達成後俘虜たることを期して空襲を企図する場合には航空機の行動半径倍大し帝国として被空襲の危険大となる等我海軍の作戦上不利を招くに至る恐れあり(原文カナ) とある。 こうしたことから、太平洋戦争における日本兵の降伏拒否や自決は、東条英機の戦陣訓示達以前から発生しており、『戦陣訓』によって日本軍の玉砕や自決が強制されたようになったとは考えにくいとする意見もある[誰によって?]。
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