豊原競馬場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 09:50 UTC 版)
樺太の最大の町・豊原では、樺太神社建立の時点で既に競馬場は企画されていた。1911年(明治44年)に、樺太神社がある旭ヶ丘の山麓に平岡定太郎が会長を務める樺太競馬会によって周囲1マイルの競馬場が設けられ、1911年8月23,24の2日間で第一回樺太競馬会競馬が開催されている。これは樺太神社の例大祭の余興として組まれたものだという。1マイルの走路は四角形で、コーナーにやや丸みをつけたもので右回り、幅は10間(18メートル)あまり。馬見場(スタンド)は長さ50間、幅2間のものを2段に組み、およそ600人収容。馬は乗馬用のほかに荷馬などで、馬の種でいうと雑種が29頭余り、土産馬が55頭あまり(番外として農用馬のレースも組まれた。サラブレッドなどの競走専用の馬はいないものの、競馬に熱心な馬主には内地から優良馬を購入したものもいる)。 初日には正式のレースが7レースが行われ、7レースとも6頭立て、距離は1マイルで行われている。2日目も7レースで、正式なレースのほかに各競走の勝利馬による決勝レースや番外のレースも行われ2日間で10数組の番外レースが行われている。初日の天候は雨だったにも関わらず3-4千人の観客を集め、晴れた2日目には5000人を集めたという。明治44年では広い樺太全体で人口が57000人なので、そのなかで数千人を集めた競馬は、当時の競馬雑誌『馬匹世界』も空前の盛挙と報じている。騎手も観客もほとんどは日本人だが、ロシア人も少数いて、ロシア人が勝利騎手の一人になっている。 翌年は7月30日に明治天皇が崩御したため競馬開催はずれこんで10月になってから行われ、第二回も2日間で各日とも正規のレースが7レースずつ、番外レースが7レースずつ行われ、前年と同じく水天号が無敗の3勝を挙げている。この年からは距離は1マイルばかりではなく1.5マイルなどの番組も組まれている。 1923年(大正12年)からは馬券の発売も開始し、売り上げの15%を樺太競馬会が取ったという。 昭和に入ってまもなく、樺太神社祭礼と離れて春・秋の2場所を開催するようになっている。 1927年(昭和2年)からはそれまで番外として行われていた騎乗速歩競走が正規の番組となり、競走の中で速歩競走の番組数がだんだんと増えていった。 樺太神社の近く、旭ヶ丘の山麓にあった競馬場は1932年(昭和7年)の樺太競馬規則による公認競馬場にはならず、1933年(昭和8年)豊原の西方・豊原遊郭の南を流れる鈴谷川の東岸(豊原駅より南西方向)に競馬場が新設されることになった。樺太競馬会は樺太競馬規則の定めによって社団法人樺太競馬会に組織替えし、新競馬場を1周1マイルの大きさと定めた。 豊原町『豊原町勢要覧』1935年発行によれば1910年(明治43年)に有志によって樺太競馬会が設立されて、だんだんと発展し、1932年(昭和7年)には社団法人化されている。豊原町大字南豊原南三線區割外に17万8920坪(約59万平方メートル)の競馬場地を持ち、春・秋に競馬を行ったとのこと。 二代目の競馬場も現存せず、ユジノサハリンスク市にあるパペードゥイ通り西端(反対側である東端は「勝利広場」)となっている。(パペードゥイ通り西端より眺めた二代目競馬場の現在の姿(グーグル・ストリートビュー画像))
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