議院内閣制の成立
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「ホイッグ党 (イギリス)」の記事における「議院内閣制の成立」の解説
1702年にウィリアム3世が死去(メアリー2世も1694年に死去)、メアリー2世の妹アンが即位するとホイッグ党政権は倒れ、トーリー党からアンとの関係が深いシドニー・ゴドルフィンが大蔵卿に就任、新政権を率いることになった。ゴドルフィンはトーリー党員だが穏健派であり、友人のマールバラ公ジョン・チャーチルはイングランド軍の総司令官としてスペイン継承戦争を戦い、妻のサラ・ジェニングスはゴドルフィンと共にアンの親交が深いため、中道派として政権を運営していた。それでもホイッグ党が議会で盛り返すと戦争遂行とスコットランドとの合同のためホイッグ党と手を組み、1707年のグレートブリテン王国成立に繋がった。 だが、ホイッグ党嫌いのアンからは不興を買い、戦争の長期化でトーリー党からも非難されゴドルフィンの立場は危うくなり、1710年に大蔵卿を更迭され、ホイッグ党も総選挙で大敗してトーリー党が議会の過半数を占めると指導者のロバート・ハーレーが1711年に大蔵卿に就任、トーリー党の有力者のヘンリー・シンジョンが国務大臣となり、ホイッグ党員の閣僚は罷免され野党に転落した。ハーレーは和平邁進のためマールバラ公を司令官から罷免、1712年にフランスと単独講和して翌1713年のユトレヒト条約を締結、オックスフォード=モーティマー伯爵にも叙任され(シンジョンもボリングブルック子爵に叙任)、同年の総選挙でも勝利して絶頂期を迎えた。 ところが、トーリー党にも弱点があった。オックスフォードとボリングブルックは和平工作では一致していたが、その後主導権を巡って争っていた。大陸へ逃れたジェームズ2世の同名の息子ジェームズを支持するジャコバイトが党内に含まれていて、オックスフォードは嫡子のいないアンの後継者に決まっていた又従兄でドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒを支持していたが、ボリングブルックはジャコバイトを支持、オックスフォードは党内一致に失敗して分裂を招いた。また、ゲオルク・ルートヴィヒはかつてマールバラ公と共闘していた関係からマールバラ公の罷免と同盟国を見捨てた単独講和を推進したトーリー党に不満を抱いていたため、新王朝でトーリー党の繁栄は期待出来なくなっていた。更に、オックスフォードは身持ちの悪さからアンに見限られ大蔵卿を罷免、後任を望んでいたボリングブルックも公金横領の不正が明らかになると同じくアンの信用を失い政権への影響力を失った。 そして、アンが1714年に亡くなりステュアート朝は断絶、ドイツからゲオルク・ルートヴィヒが迎えられジョージ1世として即位した。これがハノーヴァー朝である。ジョージ1世は既に54歳であり、英語を話す能力も新しく覚える能力もなく、イギリス王に即位してからもハノーファーに滞在する時間の方が多かったため、国政の一切はホイッグ党を中心とした内閣に委ねられることになった。ジョージ1世の信任を背景にしたホイッグ党は、1715年の総選挙勝利とジャコバイト蜂起を期にトーリー党の弾劾に取りかかり、オックスフォードをロンドン塔に投獄、逃亡してジャコバイトへ合流したボリングブルックらを私権剥奪、ホイッグ党の優位を決定的にした。かくして、わずか3年でオックスフォード政権は崩壊、ホイッグ党の長期政権が成立した。 新政権はジェームズ・スタンホープ、サンダーランド伯チャールズ・スペンサー、タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド、ロバート・ウォルポールの4人が中心となったが政争でタウンゼンドとウォルポールは下野、スタンホープとサンダーランドが与党となった。しかし、1720年にウォルポールとタウンゼンドは政府と妥協して与党に戻り、南海泡沫事件の対処に追われたスタンホープは1721年に急死してサンダーランドも信用を失い、事件を収束させたウォルポールが政権を掌握した。そして後にタウンゼンドも辞任しウォルポールの単独政権が成立した。 1721年当時のイギリス内閣のトップだった時の大蔵卿はホイッグのリーダーとなったウォルポールで、事実上の首相として21年間内閣の指揮をとった。現在ではウォルポールがイギリスの初代首相と見なされている。この時代は内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う議院内閣制が発達した時代で、ウォルポールは総選挙に敗れて首相の座を退任している。またホイッグが政党としてのホイッグ党としての体裁を取り始めた時代でもある。 ホイッグ党はウォルポールの下で近代的なイギリス議会の最初の政権党としてスタートし、ウォルポール以降もしばらくホイッグ党員が首相となり、ウィルミントン伯スペンサー・コンプトン、ヘンリー・ペラム、ニューカッスル公トマス・ペラム=ホリス、デヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュ(ウィリアム・ピットとの連立政権)が首相に在任、ビュート伯ジョン・ステュアートが短期間のトーリー党内閣を樹立した1762年まで政権の中枢にあった。初期のイギリス議会ではホイッグ党が優勢だったわけである。 ホイッグ党とトーリー党という2大勢力が発展したことによって、イギリス議会ではホイッグ党とトーリー党が交代で政権を運営する二大政党制が発達した。このころのホイッグの政策は自由主義に裏打ちされるもので、資本主義の発達を促すブルジョワジーを優遇し、自由貿易を促進し、その障壁となるものを撤廃しようとする政策を取っていた。この最たるものが穀物法の撤廃である。以降イギリスではホイッグを指して自由主義そのものと取れるようなテキストの使われ方がなされるようになる。ホイッグ史観などはその典型である。
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