議院内閣制の成立とは? わかりやすく解説

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議院内閣制の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:08 UTC 版)

ホイッグ党 (イギリス)」の記事における「議院内閣制の成立」の解説

1702年ウィリアム3世死去メアリー2世1694年死去)、メアリー2世の妹アン即位するホイッグ党政権倒れトーリー党からアンとの関係が深いシドニー・ゴドルフィン大蔵卿就任新政権率いることになったゴドルフィントーリー党員だが穏健派であり、友人マールバラ公ジョン・チャーチルイングランド軍の総司令官としてスペイン継承戦争戦い、妻のサラ・ジェニングスゴドルフィンと共にアン親交が深いため、中道派として政権運営していた。それでもホイッグ党議会盛り返す戦争遂行スコットランドとの合同のためホイッグ党手を組み1707年グレートブリテン王国成立繋がった。 だが、ホイッグ党嫌いのアンからは不興を買い、戦争の長期化トーリー党からも非難されゴドルフィン立場危うくなり、1710年大蔵卿更迭されホイッグ党総選挙大敗してトーリー党議会過半数占めると指導者ロバート・ハーレー1711年大蔵卿就任トーリー党有力者ヘンリー・シンジョン国務大臣となり、ホイッグ党員の閣僚罷免され野党転落したハーレー和平邁進のためマールバラ公司令官から罷免1712年フランス単独講和して翌1713年ユトレヒト条約締結オックスフォード=モーティマー伯爵にも叙任され(シンジョンもボリングブルック子爵叙任)、同年総選挙でも勝利して絶頂期迎えた。 ところが、トーリー党にも弱点があった。オックスフォードボリングブルック和平工作では一致していたが、その後主導権巡って争っていた。大陸へ逃れたジェームズ2世同名息子ジェームズ支持するジャコバイト党内含まれていて、オックスフォード嫡子のいないアン後継者決まっていた又従兄ドイツハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒを支持していたが、ボリングブルックジャコバイト支持オックスフォード党内一致失敗して分裂招いたまた、ゲオルク・ルートヴィヒはかつてマールバラ公共闘していた関係からマールバラ公罷免同盟国見捨てた単独講和推進したトーリー党に不満を抱いていたため、新王朝トーリー党繁栄期待出来なくなっていた。更に、オックスフォード身持ち悪さからアンに見限られ大蔵卿罷免後任望んでいたボリングブルック公金横領の不正が明らかになる同じくアン信用失い政権へ影響力失った。 そして、アン1714年亡くなりステュアート朝断絶ドイツからゲオルク・ルートヴィヒが迎えられジョージ1世として即位した。これがハノーヴァー朝である。ジョージ1世は既に54歳であり、英語を話す能力新しく覚え能力もなく、イギリス王即位してからもハノーファー滞在する時間の方が多かったため、国政一切ホイッグ党中心とした内閣委ねられることになったジョージ1世信任背景にしたホイッグ党は、1715年総選挙勝利ジャコバイト蜂起期にトーリー党弾劾取りかかり、オックスフォードロンドン塔に投獄逃亡しジャコバイト合流したボリングブルックらを私権剥奪ホイッグ党優位決定的にした。かくして、わずか3年オックスフォード政権崩壊ホイッグ党長期政権成立した新政権ジェームズ・スタンホープサンダーランド伯チャールズ・スペンサータウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドロバート・ウォルポールの4人が中心となった政争タウンゼンドウォルポール下野、スタンホープとサンダーランド与党となった。しかし、1720年ウォルポールタウンゼンド政府妥協して与党戻り南海泡沫事件対処追われたスタンホープは1721年急死しサンダーランド信用失い事件収束させたウォルポール政権掌握した。そして後にタウンゼンド辞任しウォルポール単独政権成立した1721年当時イギリス内閣トップだった時の大蔵卿ホイッグリーダーとなったウォルポールで、事実上首相として21年間内閣の指揮をとった。現在ではウォルポールイギリス初代首相と見なされている。この時代内閣国王ではなく議会に対して責任を負う議院内閣制発達した時代で、ウォルポール総選挙敗れて首相の座を退任している。またホイッグ政党としてホイッグ党としての体裁取り始めた時代でもある。 ホイッグ党ウォルポールの下で近代的なイギリス議会最初政権党としてスタートしウォルポール以降もしばらくホイッグ党員が首相となり、ウィルミントン伯スペンサー・コンプトンヘンリー・ペラムニューカッスルトマス・ペラムホリスデヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュウィリアム・ピットとの連立政権)が首相に在任ビュート伯ジョン・ステュアート短期間トーリー党内閣樹立した1762年まで政権中枢にあった初期イギリス議会ではホイッグ党優勢だったわけである。 ホイッグ党トーリー党という2大勢力が発展したことによって、イギリス議会ではホイッグ党トーリー党交代政権運営する二大政党制発達したこのころホイッグ政策自由主義裏打ちされるもので、資本主義の発達促すブルジョワジー優遇し自由貿易促進し、その障壁となるものを撤廃しようとする政策取っていた。この最たるもの穀物法撤廃である。以降イギリスではホイッグ指して自由主義そのもの取れるようなテキスト使われ方なされるうになるホイッグ史観などはその典型である。

※この「議院内閣制の成立」の解説は、「ホイッグ党 (イギリス)」の解説の一部です。
「議院内閣制の成立」を含む「ホイッグ党 (イギリス)」の記事については、「ホイッグ党 (イギリス)」の概要を参照ください。

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