南海バブルと議院内閣制の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:00 UTC 版)
「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「南海バブルと議院内閣制の成立」の解説
詳細は「ハノーヴァー朝」および「南海泡沫事件」を参照 イギリスでは、1714年のアン女王の逝去によってステュアート朝が断絶し、王位継承法によってジェームズ1世の曾孫に当たるハノーファー選帝侯ゲオルクがイギリス国王ジョージ1世として招かれた。ハノーヴァー朝のはじまりである。即位当時のジョージ1世は英語が話せず、イギリスの政治事情にも不慣れだった。 そうしたなか、イギリスでは1720年に南海泡沫事件(南海バブル)が起こった。南海会社は、1711年にロバート・ハーレーによって、イギリスの財政危機を救うために国債の一部を引き受けさせ、奴隷貿易による利潤でそれを賄う目的でつくられた貿易会社だった。ユトレヒト条約の結果、イギリスがスペイン領への独占的奴隷供給権(アシエンタ)を得たことから、おもにキューバでの奴隷貿易を行う目的で設立されたが、密貿易の横行やスペインとの関係悪化、海難事故などで本業が振るわず、国債を引き受けるどころか、会社経営そのものが危うくなりつつあった。苦境に立った南海会社が1718年に富くじを発行するとそれが成功をおさめ、会社は金融機関に変貌していった。 1719年、巨額の公債引き受けの見返りに額面等価の株券発行許可を、イングランド銀行との熾烈な入札競争の末に勝ち取った。しかし、そのため巨額な上納金を政府に支払わなければならず、南海計画という無謀な返済計画を立てた。 その結果、わずか数か月で株価が10倍に高騰し、人びとはこぞって投資に狂奔し、空前絶後の投資ブームが起こった。しかし、バブルの破綻は間もなくあらわれた。無許可の会社が乱立する一方で、バブルが崩壊し、あらゆる株価が暴落する恐慌に陥った。貴族やブルジョワジーに限らず多くの人びとが投資熱にあおられて株に手を出していたため、これにともなう混乱はひじょうに大きなものだった。 事態の収拾にあたったのは財政の専門家として名をあげていたロバート・ウォルポールだった。1721年までには、南海泡沫事件の事務的な処理方針を確定させ、再び経済も回復軌道に戻った。政治責任を問われるはずの人々に対しては追及の手をゆるめて、この事件を煙に巻く形で終わりにさせた。この手腕は、国王ジョージ1世の大きな信頼を勝ち取ることとなり、これ以後、ウォルポールは第一大蔵卿として、1742年まで政権を担当し、「国王は君臨すれども統治せず」と形容される、イギリス議院内閣制の基礎を築くこととなった。
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