詩書画一致
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)
中国においては、長い歴史のなかでさまざまな分野の芸術が栄えたが、中でも南北朝時代(六朝)の書、唐時代の詩、宋時代の絵画はその頂点をなしている。中国の絵画は書とともに、その内容、形式、表現方法の点で、他の文化圏とははっきり異なった独特の発達をとげてきた分野である。中国の伝統的価値観では、造形芸術を代表する分野は「書」と「画」であり、今日、世界的に評価の高い中国の陶磁器や仏像彫刻などは、美術というよりは工芸品の範疇に属するものであった。そもそも、「美術」という漢語自体が、近代以降、日本から中国へ逆輸入された語であり、近代以前の中国で「美術」に相当する語は「書画」であった。 中国絵画は文学や書との縁が深く、山水画の余白や画巻の巻末に絵の内容と関連する詩や文章(題賛、題跋)が書き付けられていることがしばしばある。西洋の絵画観では、絵画の余白に詩や文を書き込むということは、絵画の表現を詩や文が補っているということになり、造形芸術としての絵画の純粋性の放棄ということになりかねないが、中国の伝統絵画は西洋絵画とは全く異なった歴史的・文化的背景、異なった原理に基づいて制作されている。中国には「詩書画三絶」という言葉があり、詩作、書道、絵画の3つに通じていることは文人の理想であった。中国の文人には、親しい友人の旅立ちや再会など、機会あるごとに詩を作り、贈り合う習慣があった。題画詩(絵画の内容を表した詩)は詩の重要なジャンルであり、山水画や花鳥画には、しばしば同じ画面上に題画詩が書かれ、詩書画の3者が一体となって鑑賞された。 北宋の文人蘇軾(そしょく)は、王維(唐の画家・詩人)の画を「味摩詰之詩、詩中有画;観摩詰之画、画中詩有(王維の詩を味わって読むとその中には画があるようで、王維の画をよくよく観るとその中には詩があるかのようだ)」と評した。蘇軾はまた「少陵の翰墨は無形の画、韓幹の丹青は 語らざる詩」と言っている。「少陵」は唐代の詩人・杜甫の号、韓幹は唐代の画家、「丹青」(赤と青)は絵画を意味し、前述の蘇軾の言葉は「杜甫の詩は無形の画であり、韓幹の絵は無言の詩である」という意味である。また蘇軾は「画を論じるに形似を以てするは、見児童と隣す。」と述べ、絵画は「形」や「物」にとらわれるのではなく「意」や「情」をこそ表現するべきだとした。これに対し、晁補之は詩と絵画の関係を論じて「画は物外の形を写すも、物の形の改まざるを要する」と言い、絵画とは対象物の「形」を超えた「形」を描くものであるが、対象物の「形」を写し損なってはならないとし、「形似」の重要性を指摘している。一方で王若虚は、蘇軾は「形似」を超えたところに詩画の価値を見出そうとしており、「形似」を完全に否定しているのではなく「形似」のみに固執することを否定しているに過ぎないと述べる。 また、中国では「書画同源」ということがしばしば言われる。中国の文人にとって、書(文字)と絵画とは、絹(または紙)、墨、筆という同じ用具を使って制作する「線の芸術」であり、文人画家は書の筆法をもって墨竹、墨梅などの絵画を制作した。米芾(べいふつ、宋)、趙孟頫(ちょうもうふ、元)、徐渭(じょい、明)、董其昌(とうきしょう、明)のように、画家としても書家としても高名な人物は数多い。 張彦遠は『歴代名画記』の中で「書と画とは同体異名であり、そもそも文字の起源は象形、つまり画であった」と言っている。元時代の文人画家・趙孟頫は「書画同源」を明確に主張し、こう述べている。「石は飛白の如く、木は籀(ちゅう)の如く、竹を写しては書の八法に通じるべし」。「飛白」とはかすれた線を用いる書体の一種、「籀」とは大篆(だいてん)とも称する、古代の金石文にみられる書体のことで、「石を描くときは飛白のようなかすれた線で描き、木を描くときは大篆のような線で描き、竹を描くときは『はね』『払い』などの書の八法を用いるべきだ」ということである。
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