被害者一家・事件現場物件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:29 UTC 版)
「練馬一家5人殺害事件」の記事における「被害者一家・事件現場物件」の解説
被害者男性は愛染院(東京都練馬区春日町・真言宗豊山派)住職の四男として生まれ、1962年(昭和37年)3月に武蔵大学経済学部経済学科を卒業して日立製作所清水工場へ勤務した。1970年(昭和45年)12月からは日本洋書販売配給株式会社に転職して1974年(昭和49年)1月に美術部課長へ昇任すると1982年(昭和57年)10月からは商品管理部部長を務めるようになり、その間に妻と結婚して長女・次女・三女・長男(早逝)および次男の5児を儲け、事件当時は一家6人で、本事件現場となった東京都練馬区大泉学園町六丁目の現場2階建て家屋(以下「本件物件」。敷地面積624㎡の土地+1階76.03㎡・2階56.9㎡)に水入らずで暮らしていた。 死亡被害者 被害者男性 - 1938年(昭和13年)4月28日生まれ(45歳没)。日本洋書販売配給株式会社商品管理部課長 男性の妻 - 1942年(昭和17年)生まれ(41歳没) 夫妻の次女 - 1974年(昭和49年)生まれ(9歳没・練馬区立大泉学園緑小学校3年生) 夫妻の三女 - 1976年(昭和51年)生まれ(6歳没・練馬区立大泉学園緑小学校1年生) 夫妻の次男 - 1981年(昭和56年)生まれ(1歳没・双生児の長男は誕生翌年=事件前年の1982年に病死) なお事件当時、賃借人一家のうち長女(当時10歳・練馬区立大泉学園緑小学校5年生)は偶然にも事件翌日となる1983年6月29日までの予定で「東京都練馬区立武石少年自然の家」(長野県小県郡武石村巣栗、現在は上田市武石上本入巣栗)で開かれていた林間学校に参加していて留守だったため、一家でただ1人難を逃れた。 本件物件は被害者男性の妻の父親(=男性の義父)が1958年(昭和33年)に入手して住居としていた物件で、かねてから義父が経営していた会社のため根抵当権が設定されており、1977年(昭和52年)ごろに義父が転居した際にその管理を兼ねて娘婿一家を入居させていた。しかし男性の義父が経営していた株式会社は1981年(昭和56年)9月ごろに経営に完全に行き詰まり、あらかじめ所有名義を第三者に移すなど債権逃れの策を講じていた甲斐もなく、本件物件に関しては1982年(昭和57年)3月に競売が申し立てられ、1982年9月に「最低売却価格1億280万円」で期間入札が行われた後、1982年10月8日には特別売却実施命令がなされるに至った。なお本件物件に関しては被害者男性とその義父との間で「賃料月5万円・期間5年間とする1977年(昭和52年)3月20日付賃貸借契約書および賃料領収書2冊」が作成されており、義父は被害者男性一家をこの物件に住まわせ続けることで立ち退き料を吊り上げようとしていた。 被害者男性の義父は事業資金として本件物件の土地・家屋を担保に金融機関などから次々と融資を受けており、本件物件に設定された抵当権は総額2億1,000万円に上っていた一方で所有権も再三移転していた事情から、本件物件は不動産業界関係者から「悪質な占有者による懸案」として、1982年10月に東京地裁から「最低売却価格1億280万円」で競売にかけられて以降もAが1982年12月6日に「買い受けたい」と申し出るまで、入札が無かった、これは、競売事件では珍しくない事である。本件物件のように「抵当権がついていたり賃借人がいるような『不良物件』」であっても、広く万人から入札を受け付けないと適正な価格にならない、債権者保護の観点、今後の債権担保から見て、悪質な懸案だったと言える、悪質占有者がいる懸案だった。Aは能力者として、債権者保護を含めて入札した。 本件物件は東京地裁が競売にかけた際、物件明細書に「被害者の主張する賃借権は買い受け人には対抗できない」と明記されており、実際に本件物件の所有権は競売により最高価落札申出人の決定、入金によって、完全に所有権はAに移転した。実際に居住していた被害者側は、入金の時点で、無権限、不法占有となっていた。しかも、多額の「立ち退き料」を請求した。仮に住人が正当な権利なく居座っていたのであるから、少なくとも民事の不法行為が成立し被害者はAに対して速やかな明け渡し、並びに使用損害金を支払うのが民法の基本、信義則であった。信義則を信じたAは窮地に陥ることとなった、要は正直者が馬鹿を見たわけである。
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