被害者の遺体発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 08:22 UTC 版)
K子の両親は、失踪直後から殺人事件という真相をかなりの内容で複数の大学関係者が把握していたにもかかわらず、事実を告げられずに娘の消息を求めて奔走していたので、当然ながら「犯人隠し」だと激怒した。一方、事件発生をうけた警視庁は、大場の自宅を所轄とする目白警察署に捜査本部を置き、M助教授らから事情聴取しつつ本格的に捜査を開始する。犯人と思われる人物がすでに死亡し、なおかつ事件として立件するために被害者の遺体を捜索することとなったが、こうした事案は100年の歴史がある警視庁でも前例がなかった。 捜査本部では、大場がM助教授に「山かもしれないし海かもしれない。河口湖かもしれない」と、遺体の処理についてはぐらかした発言をしていたため、一時は河口湖の捜索も検討された。しかし、7月19日に大場が恩師のH教授から鑓水にある別荘の鍵を借りていたことが判明し、別荘に捜索箇所が絞り込まれた。その結果、泥のついたスコップが物置から発見されたほか、9月19日にはナス畑近くから、真新しいダイアナ靴店製の赤いサンダル式ハイヒールが左片方だけ無造作に遺棄されているのが発見された。この遺留品については、7月19日前後に都内で同じ型番が売られたのは新宿店の1足だけだった点に加え、失踪前日にK子が同店の紙袋を持っていたのを弟が記憶していた結果、K子の所持品と断定された。さらに20日には、200メートル離れた藪から右片方も発見されている。くわえて聞き込み捜査の結果、7月20日午後4時頃に京王片倉駅付近の中華食堂で大場とK子らしい女性が1時間ほど食事をしていたことなどが確認され、大場が犯行時に着用したと思われるシャツや下着なども発見された。そして、甲府の実家に届いたK子の手紙の下書きや、『万葉集』歌人の大伴旅人をもじったと思われる「大伴旅子」が使用したのと同じ「万葉」の題が入った便箋が別荘内の押し入れから見つかり、大場がK子を殺害して周辺のどこかに埋めたのは確実と判断された。 しかし、殺人事件としての立件に不可欠なK子の遺体は、大場が7月29日に埋め直したこともあり、「絶対にわからない場所に埋めた」との大場の豪語を裏付けるかのように発見が難航した。実際には大場の犯行は無造作で短絡的だったが、野球やテニスを得意にしていたことから体力のあるスポーツマンと思われていたうえ、大学助教授という肩書から知能犯というイメージもあり、警視庁内には大場はよほど手の込んだ方法で遺体を処理したのだろうとの悲観的な雰囲気も漂った。 当初は300名態勢で航空隊のヘリコプターや警察犬まで動員された警視庁の捜索も、最終的には捜査一課と所轄である目白署から集められた特別班7名に縮小され、彼らによってひたすら「仏探し」が続けられた。別荘周辺の空き地や雑木林を農業用の検土杖でしらみつぶしに突き刺すという特別班による地道な捜索の結果、翌1974年2月28日午後2時30分ごろ、別荘から50メートル離れた崖下にある造成予定地の藪から異臭のする土壌が検出され、ただちに発掘したところミイラ化した無残な女性の遺体が発見された。遺体は洗濯用ロープにより両足で頭を抱え込むかたちで三重に縛られ、50センチほど掘られた穴に無造作に埋められていたが、わずかに残っていたオレンジ色のワンピースの柄や髪型の特徴から、K子のものと特定される。司法解剖の結果、死因は絞殺と断定された。なお、K子が大場に告げたという妊娠の事実は確定できなかった。K子が失踪して224日目。開始から190日間にわたった捜査はこの日をもって打ち切られる予定だったが、必ず遺体を遺族に届け、大場の犯罪を明らかにするという特別班の刑事たちの執念が実った。その後、3月26日に被疑者死亡のまま大場は送検となり、ようやく事件は決着する。
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