被害者の自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 03:32 UTC 版)
「千葉県収用委員会会長襲撃事件」の記事における「被害者の自殺」の解説
事件の被害者である小川弁護士は、一命こそは取り留めたものの、両足下腿部や両肘部を複雑骨折するなどの重傷を負い、千葉大学医学部附属病院での5回にわたる手術と、リハビリテーションを受けた後も後遺症が残り、杖を使って数百メートルの歩行がやっとという状態であった。小川弁護士は「法治国家である以上、このようなテロ行為は間違っている。収用委崩壊が他の公共事業にも悪影響を与えていて、なおさら許せない気持ちだ」と述べていた。 なお、小川弁護士自身は人権派であり、用地取得に対する強権姿勢について新東京国際空港公団へ「話し合い解決に向けて、まだやるべきことがあるはずだ」と苦言を呈するなど、成田空港問題に対しては穏健な態度であった。県弁護士会長や霊感商法被害者弁護団長並びに県公害審査会委員などを歴任した小川弁護士は、1980年から収用委員会委員を委嘱され、1985年に会長に就任。事件が起きた1988年に実施された改選でも「逃げるわけにはいかない」「僕が辞めたら次の人がやられる」と過激派の攻撃が懸念される中で留任していた。 2002年(平成14年)の暫定並行滑走路供用に際して小川弁護士は「よくここまで来たな」と感慨深げにしていたが、この頃から家族に後遺症に苦しんでいることを訴えるようになった。その翌年の2003年(平成15年)2月11日、小川弁護士は東京都内で行方不明となった。同年2月13日に小川弁護士の故郷である福岡県北九州市の戸畑漁港で水死体が発見され、7月6日にその遺体が小川弁護士のものであったことが判明した。遺体に外傷はなく、入水による自殺とみられている。満71歳没。 小川弁護士の妻は、行方不明となった日の朝に小川弁護士が「もう限界だ。自由にさせてくれ」と言っていたことを明かしながら、「正直言って国の犠牲になったと思っている」と語った。
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