織田氏との関係構築・敵対勢力との戦い
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「毛利輝元」の記事における「織田氏との関係構築・敵対勢力との戦い」の解説
永禄8年5月、輝元が元服して3ヶ月後、京では将軍・足利義輝が三好義継、三好三人衆、松永久通らに討たれる永禄の変が発生し、新たな動乱の火種となった。その後、義輝の弟・一条院覚慶は還俗して足利義昭を名乗り、永禄10年に聖護院門跡の道増を使者とし、輝元を後見する元就に支援を求めた。この道増は近衛尚通の子で、さらに兄の近衛稙家は義輝の義父であり、義輝の使者として幾度か西国へ下向していた。義昭は道増と元就の間に構築された外交ルートを活用することを考え、尼子氏を滅ぼして上洛が可能となった毛利氏を頼ろうとしていた。 その後、永禄11年1月3日付で義昭から輝元に起請文が発せられたものの、元就は無用な戦線の拡大を望まず、出兵要請には応じなかった。同様の要請は越後の上杉輝虎(謙信)、越前の朝倉義景、尾張の織田信長らにも行われたが、上杉輝虎は要請に難色を示し、朝倉義景も上洛に踏み切ろうとしなかった。結局、織田信長がこの要請に応じ、同年9月に義昭とともに上洛、義昭は朝廷から将軍に任命された。 永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉と坂井政尚を丹波へと出兵させて毛利氏を支援した。また、信長は敵対する阿波・讃岐を支配する三好氏に対抗するため、毛利氏と大友氏を調停し、和睦させた。 永禄13年3月以降、輝元と信長の通交が始まるようになる。3月23日付の書状では、輝元が朝廷から右衛門督に任ぜられたことに関して、義昭の御内書が発給されたことを信長が祝している。また、毛利氏が要請した浦上氏の攻撃に関して、信長が時期を見て出兵すると約束したことも記されている。 元亀2年4月、輝元が元就との連署で信長に書状を発している。その内容は尼子氏に与して出雲・伯耆沿岸部に襲来した丹後・但馬の海上勢力に対して、将軍から停止命令を発給してほしいと要請したものである。信長は将軍にこれを奏達し、信長自身も命令を発している。 同年6月、信長が輝元・元就宛に書状を送っている。その内容は、阿波の三好氏家臣・篠原長房が備前国児島郡に襲来し、将軍から停止命令を発給してもらえるように輝元・元就が要請したことに関して、長房は義昭や信長と敵対状況にあり、停止命令は効果がないというものであった。 同月14日、輝元を後見し続けてきた元就が死去した。このとき、輝元は布部山の戦いの後も出雲に在陣中であったが、新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけたほどであった。元就の死により、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。 9月、信長は元就死去の弔意を隆景宛ての書状で示している。その書状には、「讃州表発珍重に候」とあり、毛利氏が三好氏の支配する分国へ出兵を図っていたことも記されている。 輝元ら毛利氏は大友氏、尼子氏、三好氏、浦上氏などに戦いを有利に進めるため、将軍の権威を利用し、その過程で信長を経由しなければならなかった。信長も表面的には協力姿勢を見せ、毛利氏と織田氏には軍事同盟が成立していたが、信長自身のなかでは毛利氏への優先度は低かった。 そのため、輝元は独力でこれらの敵を相手にせねばならなかった。輝元は元亀2年の元就没後すぐ、尼子勢を領内から駆逐し、また三好氏の分国へも侵攻した。その後、元亀3年(1572年)には浦上氏とも和睦を成立させ、事実上屈服させた。これにより、毛利氏はその包囲網を瓦解させることに成功した。
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