織田氏内通と粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 09:33 UTC 版)
しかし、景継には毛利氏に対して不満を抱いていた。先述の通り、元亀元年(1570年)に景継は武田高信と争い元就の調停によって和睦しているが、草苅氏と因幡武田氏との不仲は景継の父・衡継がかつて因幡武田氏の所領であった因幡国岩井郡を攻め取ったことに起因しており、和睦に際して輝元は武田高信の懇請を容れて景継に因幡国岩井郡を武田高信へ還付させようとした。景継は断ったが、それでも輝元が武田高信へ所領を与える内意であったことに不満を抱いた。毛利氏に不満を抱いた景継に着目した織田信長は、山中幸盛や蜂須賀正勝を介して調略を行った。なお、宇喜多直家と手を結んだ毛利氏に不満を抱いた三村元親が織田氏からの調略を受けて毛利氏から離反したのも同時期のことである。 景継はこの調略に応じ、信長は天正3年(1575年)3月22日付で景継への恩賞を約束する朱印状を、大谷慶松(大谷吉継か)に持たせて景継のもとへ送った。しかし、美作国月田城主の楢崎元兼が預かり守っていた因幡国内の闕所において、山伏姿で通行していた大谷慶松が捕らえられ、懐中に所持していた信長の朱印状から景継の逆意が明らかとなった。 楢崎元兼から報告を受けた小早川隆景は草苅氏家臣を数名招致し、景継の逆意が明らかとなったからには兵を差し向けて草苅氏を討ち滅ぼすべきであるが、景継の父・衡継の毛利氏に対する忠誠に免じ、景継が切腹すれば草苅氏の家門は存続すると申し渡した。家臣等はこれを拝承して帰城し、草苅氏滅亡となるよりは景継の切腹によって草苅氏存続を図るべきであると景継を説得。景継は止む無くこれに応じて同年4月27日に切腹し、信長や山中幸盛らによる草苅氏調略は失敗に終わる事となった。 景継の死後は隆景の斡旋により、景継の弟の重継が後を継いだ。
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