織田氏家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 23:59 UTC 版)
姉川の戦いの後、浅井氏の小谷城との陸路は横山城を拠点とした織田軍により分断され、佐和山城は敵中に孤立する状態となっていた。そのため、員昌は翌元亀2年(1571年)2月24日、佐和山城を攻撃された際に信長に降伏した(信長公記 巻3)。 降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江高島郡を与えられている。この頃、織田家の宿将は、琵琶湖周辺に配置されており、この高島郡の拝領は、「横山の木下藤吉郎、佐和山の丹羽長秀、安土の中川重政、長光寺の柴田勝家、永原の佐久間信盛、宇佐山の明智光秀」と同等という破格の待遇であった。員昌の武功は織田家でも認められていたと考えられる。但し、信長の甥・津田信澄を嗣養子とさせられている(丹羽家譜伝)。 その後、員昌は天正元年(1573年)9月に杉谷善住坊を捕縛(信長公記 巻6)し、天正3年(1575年)8月には越前一向一揆の鎮圧(信長公記 巻8)に従軍している。 しかし、天正4年(1576年)正月には、津田信澄が高島より上洛しており(兼見卿記)、また、同年12月に朽木商人宛に、天正5年(1577年)閏7月には横江祟善寺宛に、津田信澄が安堵状を発行していることから、この頃には員昌の権益は縮小、又は家督の譲渡が行われていたと考えられる。
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