織田氏拠点
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元亀2年(1571年)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝龍寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。同年10月14日の信長より藤孝宛ての「印判状」には「勝龍寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し」とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている。この頃の勝龍寺城は槇島城と共に信長の山城の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われる。 また勝龍寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても知られる。天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝龍寺城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。丹後へ移封されるまでの間に、2人の子宝に恵まれた。 細川藤孝は天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって京都を統括した村井貞勝の与力として矢部家定、猪子高就の両名が城主となり、二人は細川の旧領の検地を行っている。翌天正10年(1582年)、本能寺の変の際に明智光秀方が占拠し拠点とした。本能寺の変の際、猪子は二条城にて、明智方の攻撃により戦死している。変から数日後の山崎の戦いで敗走した光秀は、勝龍寺城に帰城するも、敵である羽柴秀吉軍の追撃を受け城を放棄、勝龍寺城の北門から脱出し、本来の拠点である近江国坂本城へ逃走する途中で死去。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。なお矢部は羽柴方として参戦している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、明智家縁戚のガラシャを幽閉した。
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