織田氏拠点とは? わかりやすく解説

織田氏拠点

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:55 UTC 版)

勝竜寺城」の記事における「織田氏拠点」の解説

元亀2年1571年)、細川藤孝山城西一帯信長より与えられ勝龍寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる同年10月14日信長より宛ての「印判状」には「勝龍寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々門並人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき簡要に候、仍って件の如し」とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働出て、城の改修作事にあたるように信長自身命じている。この頃勝龍寺城槇島城と共に信長山城の大前拠点としての役割担っていたと思われる。 また勝龍寺城細川忠興ガラシャ夫妻ゆかりの城としても知られる天正6年1578年8月孝の嫡男忠興明智光秀の娘お玉細川ガラシャ)が勝龍寺城結婚式挙げ新婚時代過ごしたとされている。丹後移封されるまでの間に、2人の子宝に恵まれた細川藤孝天正9年1581年)に丹後に入封し、代わって京都統括し村井貞勝与力として矢部家定猪子高就両名城主となり、二人細川旧領検地行っている。翌天正10年1582年)、本能寺の変の際に明智光秀方が占拠し拠点とした。本能寺の変の際、猪子二条城にて、明智方の攻撃により戦死している。変から数日後山崎の戦い敗走した光秀は、勝龍寺城帰城するも、敵である羽柴秀吉軍追撃を受け城を放棄勝龍寺城北門から脱出し、本来の拠点である近江国坂本城逃走する途中で死去翌日明智軍破った秀吉勝竜寺城入城している。なお矢部羽柴方として参戦している。一方光秀援軍要請断った孝は剃髪家督忠興譲って居城田辺城移し明智家縁戚ガラシャ幽閉した。

※この「織田氏拠点」の解説は、「勝竜寺城」の解説の一部です。
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