縮小と再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 05:35 UTC 版)
太平洋戦争中、戦時統制がしかれる。1946年(昭和21年)県下のイグサ作付面積は42町歩に激減した。そこから、イグサ栽培はわかりやすく現金収入になるため、沼隈・尾道周辺だけでなく広い範囲でたくさん栽培されていったという。 1957年(昭和32年)、県下の組合・連合会などが発展的解消合併、振興母体「広島県藺業協会」が発足する。ここで証紙・証糸が統一され、明確な品質保証規定が定められた。1960年(昭和35年)には動力選別機が導入され、結果生産量は飛躍的に増大した。昭和40年代(1965年以降)は生産量の最盛期であり年間約1,000万枚製造した。 ただこの1950年代から1960年代の高度経済成長時代、転機が訪れる。備後表産地周辺は瀬戸内工業地域として鉄鋼・造船など発達し、労働力が重工業へ移り農業の兼業化あるいは離農が進んだことで、備後表の産地規模が縮小していった。この時期に産地として台頭したのが九州、特に熊本八代地方・福岡筑後地方である。更に生活様式の変化つまり洋風建築の普及や敷物の多様化、農産物物流の国際化つまり安価な外国産イグサの流入が、縮小に拍車をかけることになる。またイグサは水稲用除草剤の影響を受けやすいため条件のよい圃場は限られて行き、生産者の高齢化および後継者不足も問題となった。 備後表生産量歴代ピークは1973年(昭和48年)の1,299万枚。ただ国内イグサ生産面積割合で見ると、昭和50年代(1975年以降)熊本・福岡で全国の80%強、岡山・広島で10%弱。1990年(平成2年)時点で熊本県77%・福岡県14%と2県で全国の90%強を占め、岡山県は1%、広島県に至ってはそれ以下となっていた。 こうした中、1997年(平成9年)生産者・流通業者・関係者などで「特産い草、備後表産地推進協議会」を発足、PR・活性化運動を行った。2008年(平成20年)「びんご畳表」の名で地域団体商標登録。 ただ2006年・2007年の備後イグサ栽培面積約18ha。2010年代の備後イグサ圃場は、2016年12月時点で5戸10枚、2019年12月時点で3戸5枚、と減少の一途をたどっていた。 これに対し、2016年(平成28年)地元福山大学内で備後地域遺産研究会が発足、2018年(平成30年)これに畳表業界や建築関係者が加わり「備後表継承会」が設立された。ここで、イ草の植え付け体験や講演会、中継ぎ表技法の継承に取り組んでいる。またこれとは別の個人・団体も同様の活動に取り組んでいる。
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