縮小から消滅へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 04:42 UTC 版)
石炭から石油へのエネルギー革命の動きに対し、炭労も手をこまねいていたわけではなく、1961年から始まった石炭政策転換闘争など石炭産業と炭鉱労働者の生活維持を求める動きを強めた。三井三池事故の発生した1963年に政府は新たな石炭政策を提示した。これは採算性の見込める少数の大規模炭坑のみに資金を集中させ、その他多数の炭鉱については閉山計画を促進するという、スクラップ・アンド・ビルドを基本としていた。すでに石炭産業の斜陽化は誰の目にも明らかで、炭労も以前なら可能だった反閉山闘争を行う能力を喪失しており、閉山通告を受けた炭労傘下の各組合は再就職や転居などでの配慮を求める条件闘争に移行せざるを得なかった。非常に希な条件に恵まれ、経営会社の常磐炭礦が旧産炭地域で開始した新事業の常磐ハワイアンセンターに多くの炭鉱労働者が再就職した常磐炭鉱ですら、ハワイアンセンターの労組は炭労・全炭鉱のいずれにも加盟しなかった。そのため加盟組合員数は急減し、これは1973年の第1次オイルショックでも変わらなかった。 1981年の北炭夕張新炭鉱ガス突出事故は、各炭鉱に大きなダメージを与えた。最新式の保安装置を備えていたはずのビルド鉱である夕張炭鉱で、政府の意向を受けた北海道炭礦汽船(北炭)による無理な産炭が強行され、組織が弱体化した炭労の抵抗を押し切る形で過度の合理化が進められていたことが明るみに出たのである。坑内火災鎮火を理由に、安否不明者の救出を待たずに坑内注水を実行した策も衝撃的であった。この事故では93人の死者を出し、さらに1984年の三井三池炭鉱有明抗坑内火災(死者83人)や1985年の三菱南大夕張炭鉱ガス爆発事故(死者62人)も続き、日本での石炭事業はもはや成り立たないという認識が広く定着した。炭労は倒産した北炭に代わる新会社での夕張新鉱の操業再開を求めていたが、ついに叶わず閉山提案に同意した。これは炭労の消滅がもう避けられないことも意味していた。1980年代以降はビルド鉱の炭鉱も続々と閉山し、労働組合も解散していった。1989年には総評が日本労働組合総連合会(連合)に合流し、炭労もその加盟組合(構成組織)となったが、もはや歴史の流れを押しとどめることはできず、炭労の組合員は離職や転職によって炭鉱業から去っていった。 2002年、政府が最後の国内炭保護政策として定めていた、電力会社による優先購入措置が期限切れを迎えるのを前に、日本国内最後の炭鉱となった北海道釧路市の太平洋炭礦が商業採炭を終えた。太平洋炭礦は釧路コールマインとして再生することになったが、再雇用されたのは旧太平洋炭礦社員の半分に満たず、しかも新会社の組合は炭労に加盟しないことになった。2004年10月31日に太平洋炭礦労働組合は解散を決め、遂に炭労は最後の加盟組合を失った。同年11月19日、炭労は札幌市内で解散大会を行い、54年間の歴史に幕を下ろした。
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