縮小と消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:46 UTC 版)
1740年、フリードリヒ2世率いるプロイセンがシュレージエン戦争でボヘミア北西部のシュレージエンを占領し、女王マリエ・テレジエは1742年に南部を除くシュレージエンの大部分の割譲を余儀なくされた。1756年、マリエ・テレジエはフランスやロシアと共にプロイセンに対する包囲網を結成して七年戦争を起こし、シュレージエン奪回を試みた。対するプロイセン軍はザクセンを占領した後1757年にボヘミアに侵攻、プラハの戦いでハプスブルク帝国軍を破り、一時プラハを占領した。プラハ市街の4分の1以上が破壊され、聖ヴィート大聖堂も大きな被害を受けた。コリンの戦いではハプスブルク帝国が勝利し、プロイセン軍をプラハおよびボヘミアから追い出したものの、シュレージエンの大部分は回復できなかった。 1806年にナポレオン戦争により、神聖ローマ帝国が完全に解体されると、ボヘミア王国はオーストリア帝国に吸収され、ボヘミア王号はオーストリア皇帝の付加称号となった。1867年のアウスグライヒでオーストリア=ハンガリー帝国への改編がなされた際には、ボヘミア、モラヴィア、オーストリア領シュレージエンはオーストリア帝冠領(ツィスライタニエン)の一部となった。名目的にはボヘミア王国は1918年のオーストリア帝国崩壊まで存続し、その後チェコスロバキア共和国に改編された。 現在のチェコ共和国はボヘミア、モラヴィア、チェコ領スレスコ(シレジア)といった地域で形成されており、現代でもボヘミア王国をシンボルとしている。共和国の国章には2尾の獅子があしらわれており、ボヘミア王国の赤白二色旗はチェコの国旗やプラハ城(現在は大統領府)にも見ることができる。
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