終戦後 - 戦艦長門の最期
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「長門 (戦艦)」の記事における「終戦後 - 戦艦長門の最期」の解説
終戦後、1945年(昭和20年)8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。長門は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されていた。9月15日附で除籍。アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、工作艦デルタによる作業ののちに1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ出発した。艦長はW・J・ホイップル大佐で、180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。しかし破損のために使用できるボイラーの数が限られ長門は数ノットという低速しか出せず、途中、応急修理のためエニウェトク環礁に立ち寄っている。 1946年(昭和21年)7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では戦艦ネバダが中心に配置され、長門は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5 km(1,640ヤード)の位置となった。この時長門は殆ど無傷(爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題なし)であった。長門と同時に実験標的にされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂はほぼ真上が爆心地となったために大破炎上、翌日に沈没した。 7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、実験関係者が長門のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけて、浸水の拡大によって沈没したものと見られる。 長門が二度被爆してなお4日後まで沈まなかったことは、当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」と喧伝された。もっとも、被爆を耐えた艦は長門以外にもおり、沈没を免れた米戦艦ネバダ、アメリカの軽空母インディペンデンス、ドイツの重巡洋艦プリンツ・オイゲン(後日座礁放棄)等、多数存在する。さらに長門とほぼ同じ距離にいた米駆逐艦ヒューズ(DD-410)ですら二度の被爆を沈まずに耐え抜いている。しかしながら第二実験(BAKER)の実施前に長門の艦体に機雷が装着されていたとされるなど大型艦の中では不利な条件であったとも言える。 約40年後の1985年、アメリカ政府とマーシャル諸島政府から調査許可を得た読売新聞社が戦後40年企画の一環として、ビキニ環礁の海底に沈む長門を撮影する企画を立てた。1985年12月21日、潜水調査船「はくよう」の船上で、海中カメラに映し出された画像を海軍史研究家の戸高一成が検討し、長門の艦体であることが確認された。 現在、長門の艦体は上下逆さまで着底しており、艦橋部分は折れている。ダイビングスポットとしてビキニ環礁の貴重な観光拠点となっているが、核実験の放射線の影響のため艦体に直接ダイバーが触れる事は許可されていない。ビッグ7の中、ネルソン級2隻とコロラド級3隻は戦後スクラップとして解体されてしまったが、沈没状態であった長門と陸奥(艦首から艦橋付近の第1主砲を含む約25%が海底に残されている)は今も現存している。
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