米比戦争敗北後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:45 UTC 版)
「エミリオ・アギナルド」の記事における「米比戦争敗北後」の解説
米比戦争敗北後、1901年4月にマッカーサーから釈放されたアギナルドは郷里のカウイトに帰還し、元革命軍兵士の生活支援をしつつ、農業と年金受給中心とした長い引退生活に入った。日露戦争最中の1905年7月29日に特使として訪日していたアメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官は大日本帝国の桂太郎内閣総理大臣と「桂・タフト協定」を結び、日英同盟を背景にフィリピンに於けるアメリカ合衆国の優先権と朝鮮に於ける大日本帝国の優先権が相互に承認され、フィリピンに於けるアメリカ帝国主義と朝鮮に於ける日本帝国主義が日米両国によって保障された。 1935年9月17日に実施されたフィリピン・コモンウェルスの大統領選挙には、本命のマニュエル・ケソン、及びかつてフィリピン独立教会を創設したグレゴリオ・アグリパイと共に、フィリピン共和国初代大統領、エミリオ・アギナルドも立候補したが、ケソンの697,000票に対し、アギナルドは179,000票、アグリパイは148,000票の得票となり、国政復帰は成らなかった。 第二次世界大戦によって1941年にアメリカの保護領であったフィリピン・コモンウェルスに日本軍が進撃してくると、アギナルドは日本との協力を選んでフィリピンに帰国したアルテミオ・リカルテ将軍の帰国を自宅で祝福し、かつて自分を捕えたアーサー・マッカーサー2世の息子、ダグラス・マッカーサーがコレヒドール島に立て篭もっていることに対して、フィリピン人の独立を求める立場から、マッカーサーの友として降伏を求める書簡を送っている。また、バターン半島の戦いの際にはラジオを通してマッカーサーに対してフィリピン兵の無実の若者の命を助けるために降伏するように求める演説までも行った。 1943年10月14日にホセ・ラウレル大統領の下でフィリピン第二共和国が独立を宣言した際には、アギナルドもリカルテと共に独立記念式典に参加したが、アギナルドはリカルテとは異なり、それ以上の対日協力を行わなかった。しかしながら、アメリカ軍のフィリピン反攻戦後、再びアメリカ合衆国がコモンウェルス政府と共にフィリピンに戻ると、アギナルドは対日協力者であるとして逮捕され、パラワン島のイワヒグ収容所に収容されたが、第二次世界大戦終結後の1946年、マニュエル・ロハス大統領によって恩赦が与えられ釈放された。1946年7月4日にフィリピン第三共和国が独立を達成した際には、アギナルドは独立記念式典にてフィリピンの国旗を高々と掲げるに至った。 その後、日本の明仁皇太子と美智子皇太子妃が1962年11月5日から5日間の日程でフィリピンを訪問した際に、93歳になっていたアギナルドは一時、病気療養から退院して1962年11月7日に皇太子夫妻をカヴィテの自宅に迎え、第二次世界大戦によって悪化していたフィリピン人の対日感情を和らげた。1963年の終わり頃にアギナルドは唯一の正統な自伝として『回想録』の出版を決意したものの、95歳の誕生日を一ヵ月前にした1964年2月6日、『回想録』の完成を見ることなく死去した。タガログ語で書かれた『回想録』は秘書のフェリサ・ディオクノが刊行を引き継ぎ、イースト大学のルッツ・コンドリノ教授によって英訳版が1967年に刊行された。 アギナルドの遺骸は故人の遺言に従い将軍の軍装ではなく、一兵士の軍装で埋葬された。
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