第二次大戦下 - 模索の時期から共産党入党・対独抵抗運動へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:07 UTC 版)
「クロード・ロワ」の記事における「第二次大戦下 - 模索の時期から共産党入党・対独抵抗運動へ」の解説
第二次大戦が勃発すると、第503戦車連隊に配属され、ムーズ県での激戦に参加。独仏休戦協定(1940年6月22日)の数日前にヴェルダン近くで捕虜にされたが(この戦功により、終戦時にクロワ・ド・ゲール勲章(フランス語版)受章)、10月に逃亡し、数週間後にパリに戻った。この間、『ジュ・スイ・パルトゥ』紙が対独協力に走ったことに衝撃を受け、これまでの右派との関わりを断ち、ポーランと(書店を経営して文学者が集まる場を提供していた)アドリエンヌ・モニエの尽力で偽造身分証明書を入手して南仏の自由地域に向かった。ヴィシー(オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、アリエ県)を経てマルセイユ(プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏、ブーシュ=デュ=ローヌ県)に到着し、ヴィシー政権下の保健・青年省で働いていた現代音楽の作曲家ピエール・シェフェールらによって結成され、哲学者のエマニュエル・ムーニエが顧問を務めていた「若きフランス」に参加し、映画監督のロジェ・レーナルト、劇作家のピエール・バルビエ、ジャーナリスト・作家のアルベール・オィヴィエ(フランス語版)とともに国営ラジオ局の文化番組を担当した。また、『ルヴュ・ユニヴェルセル』紙、『アクション・フランセーズ』紙、『カンディード(フランス語版)』紙から、『フィガロ』紙、文芸誌『コンフリュアンス』、(詩人マックス=ポル・フーシェ(フランス語版)によってアルジェで創刊された)『フォンテーヌ(フランス語版)』誌など右派・左派を問わず多くの雑誌・新聞に寄稿した。1941年10月にニースでアンドレ・ジッド、および彼と親しくしていた作家のマリア・ファン・レイセルベルヘ(フランス語版)(画家テオ・ファン・レイセルベルヘの妻)に出会った。レイセルベルヘによると、クロード・ロワは、戦前は明らかに右派であったが、戦中にはいかなる党派・団体にも属さずに、すべての方向性を模索していたという。 転機となったのは1943年のルイ・アラゴンとの出会いであった。アンドレ・ブルトンらとともにシュルレアリスムの運動を牽引した後、運動を離れて共産党の機関紙を主宰したアラゴンは、この頃、妻で女性初のゴンクール賞受賞作家エルザ・トリオレとともに南仏に逃れ、共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線の一派として全国作家委員会 (CNE) を結成し、委員長を務めていた(北部のドイツ軍占領地域(フランス語版)では、これに先立って1939年にドイツ学者ジャック・ドクール(フランス語版)、哲学者ジョルジュ・ポリツェル、物理学者ジャック・ソロモン(フランス語版)が全国作家委員会を結成していた)。南部の全国作家委員会にはピエール・セゲルス(フランス語版)(後にクロード・ロワの詩集を刊行)、ジャン・カスー、クロード・アヴリーヌ、ルイ=マルタン・ショフィエ(フランス語版)、ジャン・プレヴォー(フランス語版)、アンドレ・ルソー(フランス語版)らの作家が参加していた。クロード・ロワはこの委員会を通じて、レジスタンスの作家による地下出版活動に参加。さらに、アラゴンおよび彼とシュルレアリスム、共産主義の活動をともにしてきたジョルジュ・サドゥール(フランス語版)を介して共産党に入党した。1939年8月23日の独ソ不可侵条約締結を機に、共産党の機関紙はダラディエ内閣によって発禁処分を受けたために、クロード・ロワは地下出版された『リュマニテ』紙を配布し、また、1941年にジャン・ポーランと全国作家委員会のジャック・ドクールが創刊した地下出版の週刊新聞『レットル・フランセーズ (フランス文学)』の編纂を作家クロード・モルガンとともに担当した。この活動からさらに戦時中に詩「自由(フランス語版)」を発表して国民を鼓舞した詩人ポール・エリュアールと出会った。エリュアールもシュルレアリストであったが、アラゴンの共産党活動を機に彼と決別し、レジスタンスの活動を通して10年ぶりの再会を果たしたばかりであった。1944年6月、地下活動のために警察の手入れを受け、北部へ逃亡。パリ近郊のバニュー(オー=ド=セーヌ県)やノーフル=ル=シャトー(フランス語版)(イヴリーヌ県)に隠れ住んで活動を続けた。1944年8月のパリ解放に参加し、『蜂起したパリで目を開けて』と題するルポルタージュを発表し、大きな反響を呼んだ。さらに、連合軍の従軍記者としてドイツに向かい、ベルゲン・ベルゼン強制収容所での取材記事などを『国民戦線』紙に発表した。1945年1月に対独協力者として死刑判決を受けたロベール・ブラジヤックの特赦を求めるモーリアック、ヴァレリー、ポーラン、ジャン・コクトー、コレットら知識人のド・ゴールに対する請願書に署名したが、共産党の圧力を受けて撤回せざるを得なかった。実際、全国作家委員会がパリ解放後の対独協力者の追放・粛清(エピュラシオン)の一環として『レットル・フランセーズ』紙上に対独協力作家のブラックリストを発表したことは、同紙編集長のポーランの辞任をはじめとして対独抵抗作家の間に分裂を生むことになった。
※この「第二次大戦下 - 模索の時期から共産党入党・対独抵抗運動へ」の解説は、「クロード・ロワ」の解説の一部です。
「第二次大戦下 - 模索の時期から共産党入党・対独抵抗運動へ」を含む「クロード・ロワ」の記事については、「クロード・ロワ」の概要を参照ください。
- 第二次大戦下 - 模索の時期から共産党入党対独抵抗運動へのページへのリンク