社寺参詣曼荼羅の近世
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「社寺参詣曼荼羅」の記事における「社寺参詣曼荼羅の近世」の解説
今日に遺存する作例のなかで48点の多数を占めながら立山曼荼羅や白山曼荼羅は参詣曼荼羅のカテゴリーからしばしば除外されてきた。こうした認識は、立山曼荼羅の成立が主として18世紀後半以降に下り、参詣曼荼羅の作成主体である本願の衰退の時期と重なるためであった。すなわち、近世の社会的安定とともに寺社が経済的に安定するにつれ、寺社本来の勢力が本願との対立を深め、本願を排斥し始めた歴史と関連づけられたものであった。 そうした本願の衰退と参詣曼荼羅の衰退との関連付けは、那智参詣曼荼羅とその背景となる熊野三山本願所をモデルとして描き出されてきたものである。熊野三山の本願所を本寺とする熊野比丘尼による絵解きは17世紀半ばごろからは熊野観心十界曼荼羅へと重点を移していったと考えられている。具体的な史料を欠き仮説として唱えられている段階ではあるが、この時期はまた、江戸幕府の宗教統制や社家との対立による本願の弛緩と崩壊、あるいは寺請制による檀家制度の展開に影響されて、各地での定着化が進んでいった時期でもあると考えられており、それとともに参詣曼荼羅も勧進活動や参詣勧誘の道具から、唱導活動ないしそれ自体を崇拝する信仰のための対象として、また時には単に美術品・調度品として享受されたこともあっただろう。だが、熊野三山の本願所が近代の神仏分離まで生き続けたことに見られるように、その動向は一様ではなく、本願が定着した例もある。 ここまで見てきた通り、参詣曼荼羅は霊場を描き、観衆を参詣に勧誘しあるいは案内する絵図である。霊場の案内あるいは勧誘を通じて勧進を募ることは、必ずしも自明に絵図が寺社外部へ持ち出されていたことを意味するわけではないが、より広く参詣者を募ることを求めるのであれば外部で使用することのほうがいっそうの効果が期待できる。近世に至るまで遠方の霊場に赴く経済的・身分的条件を持たなかった大多数の民衆は、縁起物を読むことや絵解きに耳を傾けることが実際に聖地に赴くことと同等の意義を持つという往時の観念とともに、参詣曼荼羅を享受していたのであろう。 立山曼荼羅もそうした享受に連なっている。18世紀初頭以降に競って立山曼荼羅を作成した立山の芦峅寺は、岩峅寺との争論に対する裁許の結果、廻壇拝札活動への依存を深め、各国への廻檀に力を注いだ。その形態は保管と形態の便に即して、軸装された掛幅形式となっているが、消耗品としての安価な扱いによって作成されていたわけではなかった。立山曼荼羅は多数の需要に支えられて作成され続け、各地の檀那場で絵解かれた。本願の統制力の弱まりとともに17世紀末までに宗教的使命を終えた那智参詣曼荼羅は「本願の盛衰を抱きかかえていた絵画」であったが、那智参詣曼荼羅と多くの共通点を抱えつつも立山参詣曼荼羅からは、近世以前の参詣曼荼羅の本質ともいえる遊行漂泊性が失われているのである。
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