社寺参詣曼荼羅の人物たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 22:56 UTC 版)
「社寺参詣曼荼羅」の記事における「社寺参詣曼荼羅の人物たち」の解説
図中では、聖俗の人物たちがいくつかの場面に分かれて描かれる。世俗の人物たちのうち、参詣道に沿って描かれるのは、参詣者たちと参詣道の周囲を生活の場とする居住者・生活者たちである。これら参詣者や参詣道周囲の住人といった人物たちは他の史料や絵画によっても確認できるという意味で、あるべき場所に描かれていると言うことができる。だが、それは忠実な模写であるというより、あるべき典型としての姿であり、参詣者が目にするであろう地物や人物を丹念に描いている。こうした人物たちは、連続的に描かれることによって、巡礼の道筋を示している。一方、霊場の特定の空間に描かれた人物、また、人物の行為や仕種は、その空間のもつ特殊な意味を指し示している。例えば、社殿の前で拝跪する人物像は、その仕種の対象の聖性を明らかにしている。これらの人物に託されたのは霊場の信仰にかかわる案内であり、地物とともに描かれることにより、霊場の霊験と信仰内容を巧みに説明する役割を果たしていた。こうした雑多な世俗の人物は図中を活気で満たし、絵解きの観衆たちをして自らを投影させ、霊場の空間内を礼拝しつつ前進することを通じて、分節化された画面を元の霊場へと再構成する機能を担っている。 こうした世俗の人物の図像は通絵図的にどこにでも見出されるだけでなく、琵琶法師、高野聖、小児に介添えされる老婆などといった頻出する人物像は、参詣曼荼羅に固有なものではない。例えば琵琶法師の図像は、古くは鎌倉時代末期の職人歌合絵、例えば『東北院職人歌合』や『七十一番職人歌合』(明応9年〈1500年〉)に始まり、『年中行事絵巻』(12世紀半ば)、『一遍聖絵』(1299年)、『法然上人絵伝』(鎌倉時代末期)、『福富草紙』(室町時代初期)に渡って見出され、その中でパターン化してゆく過程が見てとれる。そうした展開は、他のタイプの人物像においても同様に見て取ることができる。また、高野聖のあるタイプの図像、すなわち2人組のうち一人が前方を指差しつつ、それに続くもう一人を振り返る描写の図像は参詣曼荼羅の作例の7割から8割に見出されるだけでなく、上杉本洛中洛外図にも見ることができる。これら世俗の人物たちの図像は、近世初期風俗画の工房における「儀軌」化された図像の切り貼りとして配列されたものだったのである。 世俗の人物たちと対照的に、霊場に固有の縁起譚にまつわる伝説的ないし神的な性格を帯びた人物たちもまた描かれており、そうした人物たちは霊場のオリジナリティに関わる図像である。これらの図像は、図の周縁部に描かれ、那智参詣曼荼羅における文覚とその荒行にまつわる人物群や振加瀬橋のたもとで竜に乗って出現した童子、清水寺参詣曼荼羅における延年寺谷を行く延鎮と坂上田村麻呂、多賀社参詣曼荼羅における犬神明神、紀三井寺参詣曼荼羅における布引の松と滝、龍と対座する僧など枚挙に暇がない。参詣曼荼羅に登場する人物たちは、参詣道・霊場においては地理的・信仰的な案内として、周縁部においては縁起・説話の案内として描かれていたのである。
※この「社寺参詣曼荼羅の人物たち」の解説は、「社寺参詣曼荼羅」の解説の一部です。
「社寺参詣曼荼羅の人物たち」を含む「社寺参詣曼荼羅」の記事については、「社寺参詣曼荼羅」の概要を参照ください。
- 社寺参詣曼荼羅の人物たちのページへのリンク