県指定重要文化財(建造物)
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「相川考古館」の記事における「県指定重要文化財(建造物)」の解説
觴華庵(しょうかあん)-1861年(文久元年)に建てられた相川家の茶室で群馬県内最古の茶室建築。2000年(平成12年)3月21日指定。現在も茶室として利用され、来館者に抹茶が提供される。
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県指定重要文化財
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「光恩寺 (群馬県千代田町)」の記事における「県指定重要文化財」の解説
阿弥陀三尊像 中尊に阿弥陀如来、脇侍に観音・勢至を祀り、鎌倉時代初期の作とされる。阿弥陀坐像は高さ240cm、手に定印を結ぶ如来型で、寄木造、玉眼、金泥を塗り、定朝様式の傑作とされる。両菩薩立像は高さ159cm、宋朝風。来歴は詳しく伝わらないが、堂山伝記では、弘法大師が草堂を建て、末代まで凡夫を導きたまえと三尊を安置したと記されている。また、佐貫氏の氏寺であったことから、佐貫氏を大檀那として制作された可能性もある。結城合戦の際、阿弥陀堂も戦火に襲われたが、三尊は歩き出して自ら難を逃れたとの言い伝えもあり、「堂山焼け出しの弥陀」とも呼ばれるようになった。 地蔵菩薩画像板碑 文永8年(1271年)の建立で、画像板碑としては日本最古に属する。俗に弘法大師「爪引き地蔵」の愛称で親しまれ、子供が生まれて乳が出ない家は、この地蔵にお詣りし、碑石をかき粉にして飲めば乳が出る、とされ信仰を集めた。「内秘菩薩行、外現比丘相、左手持宝珠、右手執錫杖、安住千葉青蓮花」の形相で立つ地蔵菩薩が刻まれ、その下には「大檀那阿闍梨幸海」の他19人の名前が刻まれている。
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県指定重要文化財
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木曾三柱神社の社殿は将軍塚古墳という墳丘上にある。主体部は横穴式石室で、文献によると「石室の大きさは北橘村で確認された古墳の中で最大」とのことである。なお、木曾義仲三男、朝日三郎義基(木曾義基)が木曾義仲の遺品と首を納めたとあり、同境内に「朝日塚古墳」朝日三郎義基の墓が残る。及びこの付近にあった七騎塚古墳も木曾義仲旧臣今井兼之の古墳である。 社宝に将軍塚出土品や縄文晩期のものと思われる石剣があり石剣は現在、渋川市北橘村歴史資料館に展示されている。 社内に木曾義仲の子孫である江戸幕府の奥医師・木曾義長(葦原検校)の木像が安置されている。 葦原検校ゆかりの品々は、この三柱神社により保存されている。その他に、葦原検校の識語が書かれた掛軸三柵がある。これは源義仲(木曽義仲)の甲冑姿(中)および四天王といわれた楯親忠と根井行親(左)、今井兼平と樋口兼光(右)を描いた画像であり、毎年正月二十一口の義仲命日に、検校がこれを掛けて祭った由来の品である。これを収めた桐箱の内側には「妻祖宣公の像もとより家に伝へしは甲冑をよるひて 床机に座し一幅のうち左右に樋、今井の二勇士従へり文化八年二月十一日祝融の禍にか蚤りて失い後に此三幅子山村勢州より模写して剛る処なり左の弐人は楯根の井右は川棚口今井なり世に是を四天王といふ本書は木曽の興禅寺にありことし六百 五拾霜の遠忌に当り表装呈修をくはふるものなり天保四年癸巳正月廿一日芦原検校英俊一敬識」と墨書されている。 社伝は木曾三社神社と同様の創建の由来を伝える。 社殿は桜樹に囲まれ、春には桜の花に包まれることから、花の明神ともいわれている。
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