県庁舎設置の可否に関する言説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:27 UTC 版)
「賞罰的県名説」の記事における「県庁舎設置の可否に関する言説」の解説
『府藩県制史』では県名が「都市名」であるかどうかに着目した説しか展開されていないが、『街道をゆく』では県名命名の前提となる県庁舎の配置自体を操作することによって「朝敵藩」の藩名が県名となることを回避したという説が福島県を例として展開されている。このような言説は福島県以外についても存在する。 例えば、「朝敵藩」の双璧とされた会津藩の首府・若松と庄内藩の首府・鶴岡や、北越戦争で明治政府と敵対した長岡藩の首府・長岡は、それぞれ廃藩置県当時には比較的大きい城下町であったにもかかわらず、いわゆる「賊軍」であるとされ、県庁を置くことも永久に許されなかった、とする説がある。 長岡が位置する中越地方(旧・古志郡、魚沼郡他)も、当初は柏崎に県庁が置かれて柏崎県となったが、1873年(明治6年)6月10日には旧・新潟県(下越地方)や相川県(佐渡島)と合併させられ、旧・長岡藩の領内で、1843年(天保14年)に天領にされた港町の新潟に県庁が置かれ、「新潟県」となった。 奥羽越列藩同盟の急先鋒である磐城平藩と中村藩の領域が合併されて設置された県は、県庁は旧・磐城平藩の首府であった平に置かれたが、県名は郡名を取った「磐前県」とされた。なお、1869年3月1日(明治2年1月19日)に明治政府によって磐城国が設置された為に、廃藩置県の時、磐城平は略称の一つである「平」に改名された。そして、1876年(明治9年)8月21日には、若松県(旧・会津藩)と福島県(中通り)と磐前県(旧・磐城平藩と旧・中村藩)の3県が合併され、県庁も若松・平・中村から遠い福島に置かれ、「福島県」となった。 しかし、長岡藩の消滅は廃藩置県の際ではなく、これに先立つ1871年1月3日(明治3年11月13日)であり、藩財政の破綻により長岡藩の側から願い出たものであった。明治政府はこの願出を受け入れて、長岡藩を廃止して隣接する柏崎県に編入した。この柏崎県は、戊辰戦争に際して明治政府軍が占領した桑名藩の飛地領の中心都市である柏崎に、既に1869年(明治2年)8月から設置されていたものである。廃藩置県の時点で「県」に替わるべき「長岡藩」は柏崎県の一部となって既に存在しておらず、長岡を忌避してわざわざ柏崎に県庁を移したわけでは必ずしもない。 一方、会津松平家が斗南藩に移封された後の会津地方は政府直轄とされ、1869年7月21日(明治2年6月13日)に若松に県庁が置かれて「若松県」と称した。若松県は廃藩置県後も存続し、上述の通り1876年(明治9年)8月21日に福島県に合併された。「永久に許されない」とする前説にもかかわらず、7年間にわたって若松は県庁所在地であった。
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