番付外で全敗から立浪四天王へとは? わかりやすく解説

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番付外で全敗から立浪四天王へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:17 UTC 版)

安念山治」の記事における「番付外で全敗から立浪四天王へ」の解説

1934年2月23日北海道上川郡下川町農家を営む家に五男として生まれる。下川町下川中学校卒業後家業手伝っていたが、1949年夏に羽黒山政司照國萬藏一行名寄巡業へやって来た際に見に行ったところ、旭川立浪部屋地方世話人担当していた人物から勧誘され入門1950年1月場所初土俵踏んだ四股名本名の「安念」で、入門については自身の強い意志であると入幕後語っている。 しかし、入門直後の安念は番付外でいきなり8戦全敗記録するなど圧倒的に弱く本場所はおろか稽古場でもすぐに転がされるほどだった。入門直後で同じザンバラ兄弟子にも軽くやられる有様で、関取昇進では無く三段目昇進目標にするほど期待薄であることは自認していた。それでも初土俵から2場所目でようやく番付に名前が記載されたことで励みになったという。均整取れた骨太体格腕力足腰強いために順調に出世し1951年5月場所での「安念山」への改名挟み当時幕下以下15日制だった)、1953年9月場所新十両昇進1954年5月場所新入幕を果たす。この時点20歳若さだった。 1957年5月場所では新小結13勝2敗の好成績挙げ幕内最高優勝果たした。まだ23歳若さ大関昇進期待され千秋楽房錦勝比古戦では気負う房錦組み止めながら繰り出される再三下手投げ苦戦したが、最後土俵際での左上投げによる勝利だった。同年年間最多勝も争う力士(年5場所で45勝を挙げた)として注目されたが、一部からはまぐれ扱いされることもあったと相撲雑誌記事において本人漏らしている。新小結幕内最高優勝をたった一度果たしたのみでは昇進など到底不可能だが、1959年11月場所では兄弟子新大関若羽黒朋明13勝2敗で初の幕内最高優勝安念山12勝3敗の好成績挙げ1960年1月場所では若羽黒綱取り安念山大関取りとして注目された場所となった。しかし、この場所は二人揃って結果を残すことが出来ず若羽黒が7勝8敗と負け越し安念山も8勝止まり)、さらに大鵬幸喜との対戦では通算21全敗当時最多敗戦記録となったことも響き結果的に大関昇進は果たすことが出来なかった。それでも調子良い時、悪い時問わず現代的な甘いマスク筋肉質身体女性人気高く若羽黒安念山北の洋昇時津山仁一の四名は「立浪四天王」と呼ばれた

※この「番付外で全敗から立浪四天王へ」の解説は、「安念山治」の解説の一部です。
「番付外で全敗から立浪四天王へ」を含む「安念山治」の記事については、「安念山治」の概要を参照ください。

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