町区の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 00:18 UTC 版)
平成10年に倉敷市は、昭和10年に設置され、昭和40年代に現在のように変更された旧町区の説明板を、阿知・鶴形・本町・中央地区において当時の町区の位置に設置する事業を行った。旧町区は江戸時代末期における倉敷村の町割を元におおむね定められた。なお、当時の町区は、現在でも地域住民などの間で、通称や小字としても使用されているものも多い。 御船町(みふねちょう) 現在の中央一丁目南部と同二丁目南部にあたる。倉敷川の新前新橋から入船橋の下流までの西岸に沿った南北に長い町区である。 昭和9年には船溜(倉敷港)が設けられており、水運の拠点になった。昭和46年12月に現在の町区に変更された。 住吉町(すみよしちょう) 現在の中央二丁目中部。自然史博物館・岡山大学資源生物化学研究所以南にあたる。 大正期には大原農業研究所および倉敷天文台が建設された。また昭和35年、倉敷市庁舎も置かれた。その場所は現在は倉敷市立美術館となっている。昭和46年12月に現在の町区に変更された。 前神町(まえがみちょう) 現在の中央一丁目中部。倉敷川西岸で、倉敷川に架かる今橋から新前神橋付近まで。 天保12年には村会所が置かれた。近代には昭和7年まで倉敷市庁舎があり、政治の中心地であった。現在の倉敷美観地区の一部で、倉敷川畔重要伝統的建造物群保存地区の一部であり、観光地として古い町並みが並び、観光客が多く訪れる。昭和46年12月に現在の町区に変更された。 新川町(しんかわちょう) 現在の中央一丁目北部・二丁目北部および阿知2丁目南西端の一部が該当する。 天保3年に新田用水と倉敷川を東西に結ぶ水路が新しく造られ、新川と呼んだ。新川水路のほぼ南岸一帯にあたる。現在、新川は埋め立てられている。重要文化財の大橋家住宅が立地する。昭和46年12月に現在の町区に変更された。 向市場町(むかいいちばちょう) 現在の本町ほぼ全域にあたる。南部(市民会館周辺)は元は本町ではなかったが、設置時に本町の一部となった。 倉敷川の東岸で、現白壁通りの北側一帯。名称の由来は、本町には青果市があったが、それに向き合って魚介市があったことに由来。現在の倉敷アイビースクエアが立地する場所に江戸時代には倉敷代官の陣屋(倉敷代官所)が、明治中期には紡績工場(倉敷紡績)が存在した。昭和42年9月に現在の町区に変更された。 平和町(へいわまち) 現在の阿知三丁目西部。おおむね一番街以西、国道429号(旧国道2号)以南および新田用水以東で、三角形の形をした区域。昭和10年の設置時には町名を倉敷としたが、同13年に平和町と改めた。 一番街商店街は当時あった映画館にちなみ、千秋座通りとも呼ばれた。昭和42年9月に現在の町区に変更された。 浜田町(はまだまち) 現在の阿知一丁目東部・阿知二丁目北部の一部、日ノ出一丁目(万寿)の一部。山陽本線寿町踏切から国道429号を挟み、倉敷センター街周辺までの南北に長い区域にあたる。 本町から浜村(現浜町付近)に通じる道(総社道)があり、この地では浜の道や浜之通りとも呼ばれていた。当時の町名に由来。昭和42年9月に現在の町区に変更された。 戎町(えびすまち) 現在の阿知二丁目北部。えびす通り商店街を中心とした区域。鶴形山の西麓にあたる。江戸中期に、すでに夷(戎)町の町名が見られ,また前述の総社道が通ることから浜之通りとも呼ばれた。 明治時代以降、商店街として発展。昭和42年9月に廃止、現在の町区に変更された。 旭町(あさひまち) 現在の鶴形一丁目全域、同2丁目北部の一部、阿知二丁目北西部の一部、幸町南部の一部。倉敷センター街の東から倉敷中央病院の手前までで、現在の鶴形一丁目全区域がほとんどを占める。 かつて岡山県立高等女学校(現青陵高校の前身)や倉敷税務署が立地していた。さらに昭和7年には倉敷市庁舎が現在の倉敷郵便局の位置にあったこともある。昭和42年9月に現在の町区に変更された。 宮坂町(みやさかちょう) 現在の鶴形二丁目のおおむね全域と阿知二丁目西部の一部。鶴形山の北麓から北西麓の一帯にあたる。 かつては「山の後」と呼ばれた。昭和10年の町区設置時に、倉敷尋常高等小学校(現倉敷東小学校)があった関係で、上記旭町の一部と山の後が一緒になり宮坂町となった。 元町(もとまち) 現在の阿知2丁目西部・同3丁目東部。国道429号の南側で倉敷中央通りを中心にその両側に広がる。概ね一番街商店街以西、えびす通り商店街周辺より西。 明治時代の呼称は新町。昭和前期頃は元町筋と呼称した。昭和10年に元町とした。昭和42年9月に現在の町区に変更された。 栄町(さかえまち) 現在の阿知一丁目の西部以外・同三丁目北部の一部・同二丁目北部の一部。倉敷駅前(南口側)一帯。大正9年にこの町名を設定。 かつては駅前には運送会社や倉庫・旅館が立ち並んでいた。その後、飲食店や土産物屋が増加し、映画館も出来、大変賑わった時期もある。昭和42年9月に現在の町区に変更された。
※この「町区の変遷」の解説は、「倉敷」の解説の一部です。
「町区の変遷」を含む「倉敷」の記事については、「倉敷」の概要を参照ください。
- 町区の変遷のページへのリンク