甲府時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 03:13 UTC 版)
2011年、ヴァンフォーレ甲府の監督に就任。前年不安定だった守備力の向上を期待されていた。三浦は守備力強化として札幌時代に培ったゾーンディフェンスを徹底させることで対策をとろうとしたが、元々甲府は守備に関してはプレスディフェンスを主としていたチームで、まったく異なる守備方式に選手は戸惑うばかりか、守備を重視しすぎたあまりこれまで甲府が得意としていた「走るサッカー」も影を潜め、昨年度J2リーグ得点トップだった攻撃力も影を潜めてしまう。初勝利が6戦目の名古屋グランパス戦と遅れ、その後鹿島アントラーズやガンバ大阪といったACL出場組には勝利したものの開幕13試合未勝利のアビスパ福岡に内容でも押されて0-1で初白星を献上するなど19試合を過ぎて4勝しか挙げられず16位の降格圏に低迷。特に守備力を期待されていたのにもかかわらずゾーンディフェンスの弱点である「相手ゾーン外からのミドルシュート」を次々と決められるなど失点数がリーグワースト2位の37と期待とは逆の状況になってしまう。この惨状に海野一幸社長も見過ごすことはできず、「8月6日の第20節サンフレッチェ広島戦と翌節のモンテディオ山形戦で連勝できなければ解任する」という条件を提示。そして広島戦でもいいところなく0-2で敗れ、試合終了後に解任された。なお、ヴァンフォーレ甲府は前身の甲府サッカークラブ時代を含め監督をシーズン途中に解任(辞任含む)したことがなく、三浦はチーム初の事例となってしまった。 監督解任後はサッカー解説者として主にスカパー!でセリエA、J SPORTSでエールディヴィジの解説を担当。
※この「甲府時代」の解説は、「三浦俊也」の解説の一部です。
「甲府時代」を含む「三浦俊也」の記事については、「三浦俊也」の概要を参照ください。
甲府時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 16:47 UTC 版)
退団から2週間後の10月1日、ヴァンフォーレ甲府のGMに就任。この年低迷した原因を分析し、改造に着手。長年甲府が行っていた独自セレクションの廃止や得点力不足に陥っていたFW陣の入れ替え、手薄だった守備陣の補強を積極的に行なう。その結果、2009年は終始昇格争いを繰り広げ4位に入り、さらに2010年には2位となり、チームは4年ぶりにJ1へ昇格した。2011年8月、成績不振により解任された三浦俊也の後任としてGM兼任で監督に就任したが、最後まで調子は取り戻せずチームは1年でJ2に降格。2012年は城福浩が監督に就任し、佐久間は再びGM専任となったが、チームはこの年J2優勝を果たして1年でJ1に復帰し、2013年・2014年も城福体制で2年連続でJ1残留に成功した。 2015年は樋口靖洋が監督に就任したが、1stステージ第5節で最下位に転落すると最下位から脱出できないまま、第11節終了後に樋口が解任され、大宮時代を含めて3度目のシーズン途中での監督就任となった(GM兼任)。監督就任後は、11試合で20失点と崩壊していた守備を立て直し、1stステージの残り6試合を4勝2分けと負けなしで終えて12位で1stステージを終えると、2ndステージはやや失速したものの、年間13位で3年連続で残留に成功した。 2016年はGMと監督を兼任し、初めてシーズン当初から指揮を執ることとなる(佐久間は前年柏レイソルの監督を務めた吉田達磨を監督に招聘することを考えていたが、この年はリーグ戦の開始が早く、チームを構築する時間が短くなるため断念したと話している)。3月29日にはクラブ副社長も兼務することが発表され、3足のわらじを履くこととなった。この年は主力の故障と移籍が続出したのが響いて最終節まで残留争いから抜け出せず、11月3日の最終節も敗れたが、他会場の結果により年間14位で4年連続の残留に成功した。試合終了後の会見で「来年は新しい監督に委ねることとなる」と、監督職は2016年限りで退任することを発表した。11月15日に、監督に前年も招聘が検討された吉田達磨が就任し、佐久間は副社長とGMの兼務になることが発表されている。
※この「甲府時代」の解説は、「佐久間悟」の解説の一部です。
「甲府時代」を含む「佐久間悟」の記事については、「佐久間悟」の概要を参照ください。
- 甲府時代のページへのリンク