宮崎・京城勤務時代
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1914年(大正3年)9月、大島は甲府中学校校長を辞し、10月に宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)校長となった。この宮崎中学も学校騒動を起こす荒れた学校であった。甲府時代と異なり教育効果も上がらず、1916年1月で校長を辞した。 1916年6月、大島は京城(現・ソウル特別市)の私立セブランス医学校(現・延世大学校)教授となった(1920年3月まで)。また、養正高等普通学校でも教えた。当初は単身赴任だったが、1921年から妻 千代・末娘らも京城に移った。妻は翌1922年10月、赤痢で病死した。京城勤務時代には、ほかに三女 麗(野尻抱影夫人)・五男 力を喪っている。
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