甲府徽典館の創設とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 甲府徽典館の創設の意味・解説 

甲府徽典館の創設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:05 UTC 版)

徽典館」の記事における「甲府徽典館の創設」の解説

近世甲斐国では江戸時代前期甲府藩設置され甲府徳川家柳沢家など甲府藩主は文治主義執り学問親しんでいた。しかし歴代藩主江戸滞在が主で甲斐には在国せず、国元における藩校整備は遅れ、甲斐在番武士階層では独学私塾における教育中心であった享保9年1724年3月には、幕政における享保の改革に伴い甲府藩廃藩となった甲斐一円幕府直轄領化され甲府城下町甲府勤番支配による町方支配が行われ、城下には勤番支配2名と勤番士が在住した。江戸時代には商品経済発達により教育を必要とする機運高まり天明年間には松平定信寛政の改革により一段と学問奨励された。こうした背景の下、甲府城下においても本格的な教育機関として学問所設けられた。 徽典館成立事情明治16年火災関連文書焼失しているため実態は明らかではないが、江戸昌平坂学問所との関わりを示す『日本教育史史料』や明治期編纂された書籍目録学頭務めた林靏梁関係者日記残されている。それらの断片的な史料によれば寛政8年1796年)に甲府勤番子弟教育目的甲府勤番支配近藤政明(淡路守)と相役の永見為貞(伊予守)が設置した甲府学問所前身とする。学問所は勝手小普請役富田武陵(富五郎)を教授(のちに学頭)に起用して勤番役邸に開校する享和3年1803年)には甲府城追手門南に学舎新築されて庶民にも開放され甲府学問所武芸一般教え講武所のほか、医術教え医学所設置されていた。大学頭林述斎林衡)により「徽典館」と命名され松平定信筆の扁額掲げられた。 初代学頭には友野霞舟乙骨耐軒任命された。

※この「甲府徽典館の創設」の解説は、「徽典館」の解説の一部です。
「甲府徽典館の創設」を含む「徽典館」の記事については、「徽典館」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「甲府徽典館の創設」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「甲府徽典館の創設」の関連用語

1
32% |||||

2
10% |||||

甲府徽典館の創設のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



甲府徽典館の創設のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徽典館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS