甲府市長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 00:04 UTC 版)
1991年4月に市民グループの公募に応じる形で甲府市長選挙に立候補、自民党の支援も得て初当選を果たし3期11年務める。この間、山梨県市長会長(1994年11月~1996年6月、2002年6月~2002年12月)・全国市長会副会長(1995年1月~1995年6月)・全国首長連携交流会会長(1997年4月~1999年5月)を歴任した。 就任後バブル景気の崩壊と重なり、また交通網の整備によるストロー現象と郊外化によるドーナツ化現象に悩まされることとなる。さらにアジア通貨危機を前後して甲府西武とトポス甲府店が相次いで撤退。甲府中央商店街もシャッター通りとなるなどこの時期の甲府市は負のイメージばかりが目立つようになり、2000年にはPHP研究所が発行する「THE21」の特集「全国自治体ランキング」において最下位の評価を受けてしまった。一方で苦しい財政状況でも市職員削減を行なわず、商店街活性化策のための補助を次々と打ち出したことから、自治労や地元商店街からは一定の評価を受けていた。
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