甲府指導者時代
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2005年より、大木武監督に誘われヴァンフォーレ甲府コーチに就任。伸び悩んでいた長谷川太郎をJ2日本人得点王に大成させた他、ベンチ外メンバーを指導 して多くの若手を育て上げ大木と共にJ1昇格の立役者となる。2006年A級指導者ライセンス取得。2007年よりヘッドコーチに昇格し、同時にJサテライトリーグ監督として指揮を執っていた。 2008年にS級ライセンスを取得し、2年契約でJ2甲府の監督に就任。選手の成長と観客へのアピールのため、片方のサイドに人数をかけてパスをまわす「クローズ」というスタイルの攻撃サッカーを大木から継承し、Hondaでの実績や開幕前のトレーニングマッチでの好成績によって、評論家などから広島と並ぶ昇格候補と評されたが、開幕5戦連続未勝利とスタートダッシュに失敗。その後持ち直しを見せるも、得点源の不在や不用意な失点によって第13節から第20節まで7戦 未勝利と低迷した。ふがいなさから、第16節愛媛戦後にはゴール裏へ出向きサポーターの前で頭を下げ、第20節C大阪戦後の記者会見では「勝ちたい…」と涙ぐみ、自信喪失をうかがわせた。同年7月以降、外国籍FWマラニョン及びサーレスの補強によって得点力不足は解消されたが、広島を除く上位陣には勝てず、最終順位は7位。J1昇格争いには絡めなかったが、シーズン中盤からの巻き返しと選手からの厚い信頼を評価され 留任。 2009年は即戦力重視の補強とプレスディフェンス主体のサッカーに切り替え、隙の無いチーム作りに取り組んだこと が奏功しスタートダッシュに成功。上位相手に健闘し仙台、C大阪、湘南とJ1昇格争いを演じる。たが、この年のJ2は全51節というかつてない過密日程であったことから 主力の疲労蓄積を考慮せざるを得ず、下位相手にメンバーを入れ替えて臨んだ結果、新加盟の栃木、富山、岡山には第2クールまで2敗4分と勝ち点を取りこぼした。第3クールには新加入3クラブ相手にもフルメンバーで戦い3勝したが、負傷や累積警告によって欠場した主力の穴埋めに苦戦する中で仙台とC大阪に引き離される。昇格最後の1枠を湘南と争うも、第49節の直接対決で敗戦。最終節まで昇格の可能性を残したが、勝ち点1差で及ばなかった。 詳細は「2009年J2最終節」を参照 シーズン終了後、契約満了により退任。選手からは胴上げで送られた。
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