大宮時代
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1999年から大宮アルディージャのコーチに就任し、監督のピム・ファーベークの下でオランダスタイルのポゼッションサッカーを学ぶ。2000年に大宮の監督に就任した。 2000年はシーズン4位とまずまずの成績を残したが、上位3チームには1勝11敗と全く歯が立たなかった。2001年は元サッカーパナマ代表FWのホルヘ・デリー・バルデス、後にJリーグ初のダブルハットトリックを達成したバレー、元サッカー日本代表の安藤正裕などを獲得。三浦も「指導者になってから最高の陣容」と自信を持っていた。 2001年シーズンは第2クールでの全勝を含め、前半戦終了時点で17勝(延長勝ち4)2敗1分けの成績であったが、第3クール開始直後にジョルジーニョとバルデスが相次いでシーズン絶望の大ケガを負い、結果的に最終順位は5位でJ1昇格は成らなかった。シーズン終了後に三浦は監督を退任した。 2004年、2年ぶりに大宮の監督に就任。当初は戦力の見定めに苦労したこともあって出遅れたが、圧倒的な首位だった川崎フロンターレ以外のチームが伸び悩んだこともあって前半戦終了時には自動昇格圏内の2位を確保する。後半戦はトゥットの途中補強や、長丁場を見据えてのターンオーバー制など打つ手がことごとく的中して白星を積み重ね、第42節の水戸戦に勝利してJ1昇格を決めた。 2005年は前半戦はほぼ五分の成績を残したが、エースのクリスティアンの退団や故障者の続出など、2001年と同じパターンで失速し、一時は降格圏内にまで順位を下げたが、そこから持ち直してJ1残留を果たした。2006年シーズンも残留を果たし、この年限りで監督を退任した。
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