現代の「国民国家」
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「グローバリゼーション」および「リージョナリズム」も参照 第二次世界大戦後には、多国籍企業が多数あらわれ、国民経済の枠組みを超える存在となっている。また、東南アジア諸国連合 (ASEAN) やヨーロッパ連合 (EU) や南米諸国連合 (UNASUR) のような地域連合も結成され、特に冷戦後にはその動きが活発化するなど、「国民国家」の枠組みが問われる時代になっている。しかしながら、「国民国家」の問題は決して過去の問題ではない。 現代のドイツ連邦共和国基本法によれば、「ドイツ人」とは、「ドイツ国籍を有する者」または「ドイツ民族所属性を有する難民ないし被追放者として、あるいはその配偶者ないし直系卑属として、…(略)…ドイツ・帝国の領内に受け入れられていた者」と規定される。この文言のなかの「ドイツ民族所属性を有する」という定義は、ナチ時代の内務省の回状に淵源をもつといわれる。これは、戦後、移住先の東ヨーロッパ諸国などを追われたドイツ系の人びとを受け入れるためにやむを得ない処置でもあったが、ドイツは、現代においても同一言語・同一人種という民族主義的な国籍原理を採用しているのである。 多民族国家であったかつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、その多様性を「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と表現されていた。しかし、冷戦の終結と東欧社会主義の崩壊は、この国を「ヨーロッパの火薬庫」に引き戻した。 1991年6月、スロベニアとクロアチアの両共和国はユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発した。十日間戦争は短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、それまで地域社会で共存していたセルビア人とクロアチア人が相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す「憎しみの連鎖」が生まれた。また、1992年3月に発せられたボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、独立に反対するセルビア人と独立を推進するボシュニャク人(ムスリム人)が軍事的に衝突、多くは独立に賛成の立場をとるクロアチア人がこれに加わった。これが同年4月よりはじまったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住が進行していたため、状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化し、その過程で民族浄化が発生した。1995年7月、セルビア人勢力は、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻し、同地のボシュニャク人男性すべてを絶滅の対象とし、8,000人以上を組織的に殺害するスレブレニツァの虐殺が引き起こされた。この虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定された。1996年に起こったコソボ紛争でも1999年にジェノサイド(ラチャクの虐殺)が発生し、国際問題へと発展した。 「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}共和制原理である政教分離を認めようとしないムスリム移民[要出典]の問題やバスク地方など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにもアイルランド共和軍(IRA暫定派)による北アイルランドのイギリスからの分離と全アイルランドの統一を目指す運動があり、ブリテン島内部にもスコットランドの地域分離主義運動がある。
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