現代のぬらりひょん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:38 UTC 版)
昭和・平成以降の妖怪関連の文献や児童向けの妖怪図鑑で「ぬらりひょん」は、家の者が忙しくしている夕方時などにどこからともなく家に入り、茶や煙草を飲んだり自分の家のようにふるまい、家の者が目撃しても「この人はこの家の主だ」と思ってしまうため、追い出すことはできない、またはその存在に気づかないと解説されている。また「妖怪の総大将」であると解説されることも多い。 ただし、このような特徴が民間で伝承されていたという実例や資料は確認されておらず、家に入って来るという解説は藤沢衛彦『妖怪画談全集 日本篇 上』において鳥山石燕のぬらりひょんの図版の下につけられた まだ宵の口の燈影にぬらりひよんと訪問する怪物の親玉 というキャプション を参考として後年発生したものであり、鳥山石燕の絵から推測された創作であると、妖怪研究家の村上健司や多田克己は指摘している。「妖怪の総大将」との説についても、藤沢による「ぬらりひよんと訪問する怪物の親玉」という箇所から拡大解釈されていったに過ぎない、と村上や多田により指摘されている。 また、和歌山県にぬらりひょんが現われたとされる話が解説として掲載されているもの もあるが、これは山田野理夫の著書『おばけ文庫2 ぬらりひょん』に収録されている「ぬらりひょん」という話が原話であり、創作によるものであろうと指摘されている。 昭和後期、藤沢のキャプションからの解釈を元とした「家に入って来る」あるいは「妖怪の総大将」であるという解説が水木しげるや佐藤有文の妖怪図鑑などを通じて一人歩きしたこと、テレビアニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』の第3作(1985年放送開始)に主人公・鬼太郎を宿敵とみなす敵役として登場し「総大将」と作中で自称したことなどが総合的に「総大将」としてのイメージを有名なものとしたこと が要因になったと見られている(ただし鬼太郎の原作漫画やアニメ第1作では普通の一妖怪という扱いである)。 以上のような特徴について国文学者・志村有弘は、伝承が本来の意味から隔たり人為的に歪曲されつつある と述べている。一方、京極夏彦は、現在その形で妖怪として機能しているので問題はなく、妖怪を生きた文化として捉えれば時代に合わせて変化することは構わないといった意見を述べている。京極夏彦は『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ版第4作の101話にゲスト参加して脚本を書いており、この中でぬらりひょんを本来の姿はタコの妖怪としている。
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