炭鉱の町から住宅都市へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 00:10 UTC 版)
一方、この頃から始まった「エネルギー革命」によって石炭の需要は激減し、その結果石炭産業に依存していた中間市は大きな打撃を受け、1964年(昭和39年)12月の大正鉱業株式会社を最後に市内の炭坑は全て閉山し、この頃の市の人口は34,000人を割るほどにまで落ち込んだ。この頃の市債(市の借金)のほとんどは教育債であり、ベビーブームに対応するため昭和20年代後半から30年代前半にかけて建設が続いた小中学校の新改築費の影響が重くのしかかってきていることが伺えるが、昭和30年代後半になると、炭坑閉山による失業者・生活保護世帯の増加及び経営難に陥った炭鉱企業各社の市税滞納により市財政の収支は急速に悪化し、1962年(昭和37年)末には資金不足に陥り財政再建準用団体の指定を受けることになった。 6か年度にわたる財政再建計画に基づいて緊縮財政を行った結果、1968年(昭和43年)3月末で財政再建準用団体の指定を解除することができたが、歳入増を目指して行った数々の大規模開発に絡む利権は公共事業をめぐる汚職の温床となり、1966年(昭和41年)11月から翌年1月にかけて、当時の添田八尾亀市長をはじめとする市の幹部が相次いで贈収賄容疑によって逮捕されるという事件が起こった。市長は容疑を否認し続け、1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で有権者の判断を仰いだ結果、僅差で辛くも再選を果たした。 昭和30年代後半から40年代にかけて、中間市は炭鉱の町から脱却して北九州経済圏の住宅都市としての再生を目指し、「通谷周辺の住宅団地化」「大正鉱業跡地の再開発」「川西地域の工業団地化」を3つの柱に掲げた。通谷を中心とする筑豊電気鉄道沿線の住宅団地開発は1961年(昭和36年)から手がけられ、1964年(昭和39年)には松ケ岡県営住宅が完成し、中鶴の大正鉱業跡地については1969年(昭和44年)から市営・県営・住宅公団による住宅建設が行われた。川西地域の工場団地化については、1963年(昭和38年)に産炭地域振興事業団が中底井野と遠賀村にまたがる虫生津の地に工場団地を造成し、一方1967年(昭和42年)には中間市が上底井野の五楽に工場団地を造成した。 1971年(昭和46年)4月に市長選が行われ、緊縮財政を掲げる新人の岡部丘雄が開発推進派で現職の添田八尾亀を破って中間市第2代目の市長となった。しかし就任直後の同年5月、市民課窓口で対応していた市職員が市民に差別発言をしたということで部落解放同盟中間支部からの糾弾を受け、部落解放対策室を設けることや同和住宅・保育所など総額30億に及ぶ施設等の整備を盛り込んだ覚書に市長は同意し、その覚書に基づいて1972年(昭和47年)、「解放保育所」と「部落解放会館(隣保館)」がオープンした。
※この「炭鉱の町から住宅都市へ」の解説は、「中間市」の解説の一部です。
「炭鉱の町から住宅都市へ」を含む「中間市」の記事については、「中間市」の概要を参照ください。
- 炭鉱の町から住宅都市へのページへのリンク