漢字圏の密教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 04:35 UTC 版)
中国においては、南北朝時代から、数は限られているものの初期の密教経典が翻訳され、紹介されていた。3世紀には『華積陀羅尼神呪経』が翻訳されるなど、西域方面から伝来した仏典の中に初期の密呪経典が含まれていた。東晋の時代には格義仏教が盛んであったが、同時に降雨止雨経典などの呪術的な密典も伝訳された。これらは除災や治病といった現世利益を仏教に対し求める民衆の期待と呼応していたとも考えられる。その後、唐代に入り、インドから来朝した善無畏や中国人の弟子の一行が『大日経』の翻訳を行い、さらにインド僧の金剛智と弟子の不空(諸説あるが西域出身のインド系帰化人であったと言われる)が『金剛頂経』系密教を紹介することで、インドの代表的な純密経典が初めて伝えられた。こうして、天台教学をはじめとした中国人による仏教思想が大成した時代背景において、それ以前の現世利益的密教とは異なった、成仏を意図したインド中期密教が本格的にもたらされ、その基礎の上に中国の密教が確立し受容されるに至った。仏教を護国思想と結びつけた不空は唐の王室の帰依を得、さまざまな力を得て、中国密教の最盛期をもたらすことになった。 その後、密教は武宗が大規模に行った「会昌の廃仏」の打撃を被り、円仁らが中国に留学した頃は、相応の教勢を保っていたとみられるが、唐朝の衰退とともに教勢も弱まっていった。北宋になって密教も復興し、当時の訳経僧であった施護(中国語版)はいくつかの後期密教経典も翻訳したが、見るべき発展はなかった。以後、唐密教の伝統は歴史の表舞台からほぼ消失し、中国密教は次第に道教等と混淆しながら民間信仰化していったともみられる。その一方で遼や西夏でも密教が行われた。殊に西夏では漢伝の密教とチベット仏教が混ざり合っていたことが残された史料から窺われる。 密教研究者の頼富本宏は唐密教衰退後の中国密教を後期中国密教と呼び、以下の形態の密教が存在したことを想定している。 宋代に漢訳された後期密教経典に基づく密教。この形態の密教が中国で実際に広く行われた形跡はないとされる。 密教の民間信仰化。一例として台湾や東南アジアの華人社会に今も伝わる瑜伽焔口という施餓鬼法要が挙げられる。 元朝や清朝において統治者が庇護・奨励し、主に上層階級に信仰されたチベット仏教における密教。 中国密教(唐密)における明代や清代の資料の幾つかは、『卍蔵経』や『卍続蔵経』にも収められている。 『准胝懺願儀梵本』 呉門聖恩寺沙門弘壁 『准提集説』 瑞安林太史任増志 『准提簡易持誦法』 四明周邦台所輯 『准胝儀軌』 項謙 『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』 夏道人 唐代に盛んであった中期密教を唐密宗(唐密:タンミィ)または漢伝密教(漢密)と呼ぶ。清代以降の禅や浄土教の台頭、現世利益や呪術の面でライバルであった道教に押されて中国では衰退・途絶し、日本密教(東密)の逆輸入も行われた。上海市の静安寺にみられるように日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる新しい動きもある。
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