河井継之助の最期
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重傷の継之助は1人で歩けず、会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。 峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時既に継之助の傷は破傷風により手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく出羽庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制度がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。 継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な容態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥り、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。享年42。なお、継之助終焉の場所である矢澤家は昭和36年(1961年)、只見川電源開発に伴いダム湖に水没する地にあったため、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。 継之助の葬儀は会津城下、建福寺にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。現在は臨済宗妙心寺派大寶山建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑(「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑)が残されている。また、只見町塩沢の医王寺にも村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある。 戊辰戦争後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は彼の藩政改革に反発する者や長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたと伝わる。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は、継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助が既に戦没していたため、政府より死一等を減ずる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(継之助の養女の夫)に新知100石を与えて継之助の家族を扶養させた。 明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森源三の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。 河井継之助記念館が只見では前述のダム水没に伴う移転に合わせて1973年に開館したのに対して、長岡ではその33年後の2006年であった。長岡で開館時から館長を務める郷土史家の稲川明雄は、継之助嫌いだった自分を館長にしたのは、継之助に批判的な市民からの批判を抑えることを当時の市長が意図した可能性があると推測している。
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