池田 豊とは? わかりやすく解説

いけだ‐ゆたか【池田豊】


池田豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 07:38 UTC 版)

池田 豊
基本情報
国籍 日本
出身地 東京府北多摩郡武蔵野村
(現:武蔵野市
生年月日 (1893-09-24) 1893年9月24日
没年月日 (1952-10-21) 1952年10月21日(59歳没)
選手情報
ポジション 三塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1962年
選出方法 競技者表彰
獲得メダル
日本(早稲田大学)
極東選手権競技大会
1917 野球

池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952年10月21日)は、東京府北多摩郡武蔵野村(現:武蔵野市)出身のプロ野球監督審判

来歴・人物

早稲田中学校を経て、早稲田大学卒業。早大時代は三塁手。卒業後東京六大学野球連盟の審判となる。

1936年、大学の先輩河野安通志が総監督をつとめる大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)の初代監督に就任。河野が後楽園イーグルスを設立すると同時に辞任した。

名古屋軍では後に公式戦の基点となる東京の職業野球連盟発足記念トーナメントで優勝を果たし(ただし、大阪では阪急に、名古屋では大阪にさらわれた。)、「プロ野球選手は自前で養成しよう」との信念から、少年野球から西沢道夫を発掘し、後に中日の大選手になる道筋を作っている。

1937年日本職業野球連盟の審判部に入局。初代審判部長であった沢東洋男から部長職を引き継ぎ第二代の審判部長となった。戦後もプロ野球審判をつとめるが1948年限りで引退。2リーグ分裂後も指導員としてどちらにも所属しなかった。

その後市岡忠男の要請により日本サイクリスト・センター(現在の日本競輪学校)の訓練部長として競輪選手の育成に当たろうとしたが、その矢先に胃癌のため倒れ1952年に59歳で逝去した。

1962年に競技者表彰で野球殿堂入りを果たしている。

詳細情報

通算監督成績

通算1年指揮、42試合、19勝23敗、勝率.452

表彰

背番号

  • 30(1936年)

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「池田 豊」の関連用語

池田 豊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



池田 豊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの池田豊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS