歴史・経緯
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東京市の人口増加に対応した水源確保のため、埼玉県入間郡山口村(現在の所沢市)に1927年(昭和2年)に、東京市水道の第一次拡張事業第2期工事で認可され着工、7年の歳月をかけ建設された。 貯水池は狭山丘陵の柳瀬川浸食谷を活用して造られ、勝楽寺(山口村の大字)と縄竹(宮寺村の字、現・入間市)は集落全体が離村した。工事にあたり、村山貯水池の資材運搬と導水管(羽村村山線)工事の際に敷設し廃線となった羽村-横田間の軽便鉄道の線路再敷設と横田-山口貯水池堰堤間の延伸工事を1928年に行い、1929年から砂利運搬に利用した。廃線跡の一部は武蔵村山市は野山北公園自転車道として、羽村市は神明緑地として整備された。 戦時中の補強工事 第二次世界大戦中、米軍などの空襲による破壊に備えるため、1943年から1944年にかけて羽村山口軽便鉄道を復活させ砂利を運び、既存の堰堤の嵩上げと自然石とコンクリートによる耐弾層が施工された。高欄や親柱はこの時点で耐弾層に埋められた。 平成の耐震工事 1995年(平成7年)に起きた阪神・淡路大震災を契機とし、1998年(平成10年)から2002年(平成14年)11月にかけて堤防と取水塔の補強工事が実施され、また堤体の上流側と下流側に腹付け盛土を行い堤体の断面規模を大きくする耐震強化工事を実施した。耐震工事とともに周辺の整備も行われ、以前はなかった堤防の途中に設けられた数カ所の階段や展望デッキも新設された。耐震工事前の堤防の道の両脇には石が敷き詰められていたが、新しい堤防はそれがなくなり、歩きやすくなった。新しい堤防の道は以前の堤防の雰囲気を残すためか、道と道の両脇の色が異なっている。なお、耐弾層を除去した際に昭和初期の高欄や親柱が発見された。耐弾層が保護の役割をしていたため、当時の面影がきれいに残っていた。
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歴史・経緯
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1996年9月、『大学のリメディアル教育』(広島大学大学教育研究センター)発刊。「リメディアル」がタイトルに入った、初の書籍。 2005年3月、日本リメディアル教育学会 発足。 2005年10月、『大学におけるリメディアル教育への提言 : 英語のつまずきに関して』(大学教育出版)発刊。 2007年2月、『大学生のためのリメディアル力学入門』(晃洋書房)発刊。
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