株式会社アステル東京時代
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「アステル東京」の記事における「株式会社アステル東京時代」の解説
元々はPHSサービス提供に向けた企画調査会社・株式会社テレウォーカー東京企画( -とうきょうきかく)として1994年9月に設立。翌1995年1月に株式会社アステル東京と社名を変更した。 東京電力の通信会社である東京通信ネットワーク (TTNet) を軸に、日本テレコム(JR系)・国際電信電話・日本高速通信(トヨタグループ・道路公団系)・東京テレメッセージ・三井物産・三菱商事・住友商事・東京電力・東日本旅客鉄道の10社が主要株主である。NTTと第二電電はそれぞれPHS事業会社を設立していたため、それに属さない企業がPHS事業に関与する"寄り合い所帯"の会社として誕生した。 サービス開始はNTTパーソナルやDDIポケットと同じく1995年4月1日を予定していたが、半年後の1995年10月1日に延期された。これはサービスの肝となるTTNetの回線を使用した独自網によるネットワーク構築を断念し、NTT(当時)のネットワークを使用したNTT依存網へ転換したためや全国のアステルグループで入り乱れる独自網とNTT依存網の接続構成の構築に時間がかかったためである。 当初はバックボーンにTTNetのネットワークを使用する予定であったが、ライバル並みのサービスエリアの拡大への素早い対応が可能か懸念視されたことや、そもそも当時のTTNetはまだISDNサービスを手がけておらず、電話交換機等の設備的にもアステルが必要とするISDNの需要に対応するのは困難であったこと(TTNetがISDNサービスの提供を開始するのは1997年4月)、大株主の日本テレコム・KDD等がTTNetにインフラを握られるのを快く思わなかったことなどの理由から、独自網をあきらめ仕方無くNTTのISDN網を使用する事になった。アステル関西等がNTT依存網型を採用したのも同様の理由である。それでもサービス開始から2年程度、独自網の地域会社へローミングした際は発信のみ可能で着信不能という事態が続いた。 結局アステルの特色ともいえる「どこでも市内コール」や「5円コール」・「インターネット常時接続」のような斬新なサービスの導入が可能になるのはTTNetによる吸収合併後の独自網への切り替えを待たねばならず(しかも常時接続は関東では結局提供されなかった)、アステルの魅力を引き出せなかった事が結果的に敗因となった。 しかし出資会社の強みを生かしてJR東日本を始めとする駅構内のアンテナ設置や電柱へのアンテナ設置は驚異的なスピードで配置された。特に中・高出力型の電柱頂上へアンテナ設置するタイプはアステルの独擅場であった。しかし黎明期はアンテナが設置されてもネットワーク工事が進まず、酷いケースでは設置から半年程稼動しない事もあった。家の近くにアステルのアンテナがあるからアステルPHSを買ってみたけど、稼動していないから使えないという不評が多く「使えないアステル」のレッテルは根強く残る事となった。 サービス窓口をきめ細かく設置し、現在はauやウィルコムを取り扱っているトヨタ自動車のディーラー内携帯電話販売店「PiPit」は元々「アステルスポット」として開設された所が多い。これは、日本高速通信(テレウェイ)を通してトヨタグループが出資していた事に由来する。 移動中の車や電車では使えない、途切れが酷いなど当初のPHSの不評とネットワーク整備の遅さから、東京テレメッセージと共同でポケットベル付きPHSの発売や、「パワーアンテナ」と称するホームアンテナ(室内電波中継器)の開発・格安の貸出し等で努力したり、移動通信では当時最速の通信速度のため、データ通信を利用するユーザーの根強い支持があったものの、音声通信が中心のユーザーには同時期に端末価格・加入料・基本料が下がって加入しやすくなってきた携帯電話に流失するようになった。 1998年10月にはPIAFS接続による独自ネットワーク網を用いた文字情報サービス「MOZiO(モジオ)」サービスを開始。1999年1月に登場する「iモード」の先駆けであったが、独自網の為勝手サイトはサポートしなかった事や、eメールサービスの提供開始がDDIポケットのH"サービス開始と同時期(1999年秋)にズレ込んだ事から、爆発的な人気にはならなかった。
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