時代劇スターに
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1926年(大正15年)8月、日活大将軍撮影所に入社。入社の経緯は、大河内の母方の従弟が大将軍撮影所長の池永浩久と郷里(中津市)を同じくし、私塾でも同じだったことから、同じく従弟同士の大久保謙治が浅岡信夫に薦められて日活入りを池永に頼んだ際、ついでに大河内の入社も頼み、2人とも入社がかなったということである。しかし、誰も室町次郎を知る者もいなければ素質を認める者もなく、それゆえ彼を使おうとする者もいなかった。 ただ、同年に日活に入社し、舞台で演ずる大河内を知っていた伊藤大輔監督にはその素質を認められ、伊藤の入社第1作『月形半平太』の主役に起用されるが、会社は無名を理由に反対したため、伊藤は大河内主演用に『月形半平太』を裏返しにしたストーリーを書き、『長恨』の題名で作品を撮影した。同作のラッシュプリントを観た池永は大河内を気に入り、池田富保監督の『水戸黄門』で急病の三桝豊の代役として槌田左門役に抜擢(ばってき)され、かけ持ち出演した。続いて大佛次郎原作の『照る日くもる日』では河部五郎の共演者として出演することとなったが、そのせいで『長恨』の撮影は遅れ、大河内のデビュー作の公開は11月15日に伸びてしまった。しかし、これらの演技で大河内は評判を呼び、次第に頭角を現していった。 日活入社時は恩師の沢田正二郎の二郎の字を取って、芸名を大河内傳二郎としたが、『長恨』公開時に宣伝部の誤りで大河内傳次郎と表記され、以降は傳次郎で通した。姓の大河内は、出身地の町名である大河内(ただし読み方は「おおかわち」)から取ったものである。 デビューと同時に注目を浴びた大河内は、翌1927年(昭和2年)だけで21本の作品に出演。この中には伊藤監督・唐沢弘光撮影の『忠次旅日記』全三部作、河部と共演した『地雷火組』『弥次㐂多』三部作、井伊直弼を演じた『建国史 尊王攘夷』などがあり、特に『忠次旅日記』はキネマ旬報ベストテンで第二部が1位、第三部4位にランクインされ、サイレント映画時代劇の金字塔ともいえる傑作となった。この作品以降、伊藤監督・唐沢撮影のコンビで『血煙高田の馬場』などの時代劇を連発。このゴールデントリオによる作品で一躍空前の人気を集めた大河内は、大スターとしての地位を決定的なものにした。 1928年(昭和3年)、伊藤と唐沢のトリオで撮った『新版大岡政談』で初めて丹下左膳を演じた。元々原作ではあまり重要人物ではなかったが、この作品では左膳を前面に押し出し、大河内は大岡越前と左膳の二役を演じた。アクの強い丹下のキャラクターは大評判となり、刀の鍔を口元に持ってきて見得を切る「丹下左膳」のキャラクターは大河内のシンボルとなり、彼の当たり役となった。トーキー時代に入ると、少し地元の豊前訛りのある大河内の「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」(姓は丹下、名は左膳)という決めセリフが一世を風靡(ふうび)、後代まで多くの人々が物真似にする名文句になった。結果、生涯を通して「丹下左膳」の題名を持つ主演映画は17本を数えるに到った。 同年7月、『大菩薩峠』の映画化問題が発生し、伊藤監督が退社したが、大河内は残留となった。11月頃、幾つかの作品で共演した伏見直江との恋愛問題が噂に上り、結婚説まで浮上した。それが原因してか、同年末には池永と衝突して12月25日に日活を退社した。1929年(昭和4年)3月4日、沢田正二郎が急死、それで一時新国劇の舞台に立ち、新橋演舞場での追悼公演にも特別出演した。 同年4月30日、日活に復社し、復社第1作の『沓掛時次郎』は大ヒットした。1930年(昭和5年)には伊藤監督も復社し、唐沢を含めて再びこのゴールデントリオで『素浪人忠弥』『興亡新撰組』『御誂次郎吉格子』といった傑作時代劇を連発した。このほか、内田吐夢監督の『仇討選手』、山中貞雄監督の『盤嶽の一生』『丹下左膳余話 百萬両の壺』などにも主演。1932年(昭和7年)にはトーキー第1作の村田実監督『上海』で現代劇にも出演した。日活には足掛け12年間在籍し、主演作は100本以上にのぼった。
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