勝プロ時代とは? わかりやすく解説

勝プロ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:54 UTC 版)

勝新太郎」の記事における「勝プロ時代」の解説

1967年勝プロダクション設立、自ら映画製作乗り出す。この時期大手五社によるブロックブッキング体制五社協定崩壊の中、三船敏郎三船プロ石原裕次郎石原プロ中村錦之助萬屋錦之介)の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクション設立続いた。 勝プロは、既に経営が立ち行かなくなった末期大映傾倒した若者向け暴力エロ・グロ路線作品とは一線を画し三隅研次安田公義森一生増村保造大映出身監督たちと時代劇伝統絶やさぬよう拘りぬいた映画制作続け勅使河原宏五社英雄斎藤耕一黒木和雄ら、当時インディペンデントな場から台頭しつつあった監督斎藤のみは元日活であるがスチルマン出身である)たちとも手を組み、『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演したまた、一方では『男一匹ガキ大将』や実兄若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身主演した御用牙』などマンガ劇画映画化テレビドラマ製作にも進出した。 特に1971年、製作・監督・脚本主演こなした映画顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラ行い極端なクローズアップ多用し状況説明的な描写廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマありながらも、それまで日本映画映画文法破り先進的な手法使った作品評された。 またデビューして2年俳優だった松平健を自らの弟子とし、勝自身が製作・主演したテレビドラマ座頭市物語』に出演させて徹底的に鍛え上げ1978年に『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)に主演させて時代劇スターに育て上げた1980年には勝プロダクション松平主演テレビドラマ走れ!熱血刑事』を製作している。 1974年から1979年にかけて、座頭市テレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作(その多く脚本演出担当)するなど、活動軌道に乗っているように見えたが、この頃からプライベートでのトラブル多くなり、1978年にはアヘン不法所持書類送検される。1979年には映画影武者』の主役に抜擢されるが、監督黒澤明衝突し降板1980年製作したテレビドラマ警視-K』(日本テレビ系)が完全主義の勝の製作方針などで予算オーバーし作品自体不振途中打ち切りになるなどした。この影響受けて勝プロダクション膨大な赤字抱えて経営が立ち行かなくなり1981年12億円の負債残し倒産。この時の記者会見で「勝新太郎負けない」と述べ借金戦っていくことを宣言する翌年中村玉緒社長とした「勝プロモーション」を設立するが、1983年には義父二代目中村鴈治郎死去するなど不幸が相次いだ

※この「勝プロ時代」の解説は、「勝新太郎」の解説の一部です。
「勝プロ時代」を含む「勝新太郎」の記事については、「勝新太郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「勝プロ時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「勝プロ時代」の関連用語

勝プロ時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



勝プロ時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの勝新太郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS