春畝村正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
「伊勢国、千子、村正、初代、脇差 一尺二寸三分/同、二代、刀、 二尺二寸六分/拵脇差朱鞘白柄角縁頭目貫金無垢牡丹に山鳥雌雄、石黒政秀在銘/刀朱鞘白柄縁頭帯取鐺銀台八雲形に金秋草の色絵、御用信盧在銘、目貫金台農婦樵夫育児の図、銀素赤色絵、寿長在銘」は、初代内閣総理大臣伊藤博文(春畝公)の最晩年の愛刀。 伊藤は元々、名士としてそれなりに刀剣を所有してはいたものの、そこまで愛好家という訳ではなかったが、明治40年(1907年)夏、韓国から帰国後(伊藤は当時韓国統監)に、政財界のフィクサーで愛刀家だった杉山茂丸(作家・夢野久作の父)に刀剣趣味を触発されて、死までの2年間に天下の名刀を多く蒐集していた。伊藤が刀に目覚めたというので、本阿弥琳雅らがこぞって名刀を持って押しかけたため、2年しかなかったにも関わらず、伊藤の刀剣趣味は著しく向上した。秘書官の古谷久綱によれば、伊藤は特に日本刀の歴史的側面に興味を持っていて、「一本の刀も無限の歴史を語る」と古谷に話したことがあるという。 伊藤がこの村正の大小を入手した経緯もやはり刀友の杉山である。元々、杉山茂丸は村正の傑作を入手しようとしていて、96振りもの村正を見てきたのだが、どれも贋作か後代の村正で、杉山の満足できる出来ではなかった。そこに本阿弥琳雅が古青江の名刀を売りつけに来たので、断る口実で、村正の上作なら買う、と言った。はたして琳雅は四、五日後に村正の中でも最高傑作とされる大小を持ってきたが、このとき琳雅が提示した価格を、杉山は有名作家の父らしく「黄金(こがね)を杉の嶺 鞍馬天狗の鼻の息 嵐の山と吹き荒(すさ)み飛び立つ程の好もしさも 愛宕高尾に攀(よ)じ登る路尽き果てて」と表現している。杉山は代金後払いで村正を手に入れたが、支払おうにも資金が足りず、桂太郎侯爵(後に公爵)に当の村正を質に入れて借金をし、琳雅に代金を支払ったが、なかなか資金を調達できる目途は立たなかった。その頃、桂の妻やその他の身内に病人が出て、誰かが妖刀村正のせいだというと、家中の皆が村正のせいだと文句を言い始めたので、桂本人は伝説を信じていなかったが、困り果てて、杉山に村正はとりあえず返すから速く借金を返済しろと催促している。後に、杉山は橋本雅邦の絵を代価として借金を支払った。 ある時、杉山が元の持ち主(某侯爵)のさらに前の持ち主である浅野某を訪ねて由来を聞くと、この村正の由緒書には、 天明4年(1784年)に佐野政言が若年寄・田沼意知を斬り捨てて「世直し大明神」と世間でもてはやされた時、政言の差料は一竿子忠綱ではなく実はこの村正だったとか、享和3年(1803年)に刀工・水心子正秀がこの村正の写しを作ったことがあるとか、他にも色々と信じ難いことが書かれていたという。 明治40年(1907年)の暮、杉山が友人と酒を飲みながら、この村正を鑑賞していると、突然伊藤博文が現れた。驚く周囲を押し留め、村正を観ると、ため息をついて、「これは珍しい名刀だ。余の最近の刀剣熱はみな知っているだろうが、この刀こそ余が日頃から求めていた村正である。この刀を持ち帰って老後座右の楽しみの備えにしたいから、譲ってはくれぬだろうか」と杉山に頼み込んだ。この刀に相応しい人が持つならば、と杉山は一も二もなく了解した。伊藤は杉山に礼として薫書、大幅、そして1,500金もの大量の金子を贈ったが、杉山は金子を頑として受け取らなかったので、伊藤は金子を自分の護衛たちに気前よく分け与えた。 伊藤は、公務で日韓を行き来する時も常に村正を携行し(ただし帯用していたのは軍刀拵の備前三郎国宗)、杉山が韓国での伊藤の身を案じて手紙を送ると、伊藤は村正の刀が護る身だから大丈夫だと返答してきた。 明治42年(1909年)10月26日、伊藤はハルビン駅で暗殺された(伊藤博文暗殺事件)。ハルビン訪問時に持参していたのは、村正ではなく当麻国行の短刀と来国次の短刀、和泉守兼定の仕込み杖(通称春畝兼定)だった。杉山は、愛刀の朱鞘の村正さえあれば結果は違ったかもしれないのに無念だ、としている。 遺品の刀で、古谷久綱が特に上作としたものは28振あり、村正3振り(短刀、刀(拵付)、脇差(拵付))、豊後国行平の太刀2振り、備前三郎国宗の刀(韓国統監在任中に軍刀拵で差料としていたもの)、当麻国行の短刀(ハルビン訪問時携帯)、来国次の短刀(同じくハルビン訪問時携帯)、行光(古備前)、備前順慶長光、備前左近将監長光、則重、国綱の太刀(特に激賞して千金で買い求めた)、安綱、来国光、正宗、貞宗等々があった(ハルビンで使用した仕込み杖の兼定、いわゆる春畝兼定は何故か上記の「上物」リストに入っていない)。同銘で3振所持したのは村正(初代と二代)のみ、2振も豊後国行平、長光(順慶と左近将監)のみで、しかも杉山に頼み込んだ村正の大小以外にも、さらに自分で短刀1振りを購入した(村正は特に短刀の名手)ことがわかり、いかに伊藤が村正に傾倒していたかが読み取れる。
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