明治22年徴兵令
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徴兵令では、満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は後備軍(予備役)とした。 国民皆兵を理念とはしたが、体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれ、また制度の当初、「一家の主人たる者」や「家のあとを継ぐ者」、「嗣子並に承祖の孫」(承継者)、「代人料を支払った者」(当初は270円、1879年に400円へ引き上げた)、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」は徴兵免除とされた。このため、徴兵逃れに養子になる等の徴兵忌避者が続出し、徴兵免除の解説書まで出版されたりもした。この結果、二十歳以上の男子の3%~4%くらいしか徴兵できなかった(もともと政府の財政難により、成人男子全員を徴兵することは到底無理ではあった)。 さらに各地で徴兵令反対の一揆が起こった。徴兵告諭に「血税」という言葉があったためとされ、「血税一揆」と呼ばれた。この一揆は、特に岡山県で激しかった。「血税」とは、フランス語の「impot du sang」の直訳であり、「impot」が「税」、「sang」が「血」の意である。この名のせいで、本当に血を抜かれると誤解した者も多かった。 「徴兵告諭」の一節:「人たるもの固(もと)より心力を尽し国に報ひざるべからず。西人(西洋人)之を称して血税と云ふ。其生血を以て国に報するの謂なり」 また当時「徴兵、懲役、一字の違い、腰にサーベル鉄鎖」という句が流行った。強制に基づく徴兵は監獄に行くのと同じであり嫌だ、という反抗の表れとされる。 当初は民の抵抗の多かった徴兵制度も、軍人勅諭や教育勅語による国防思想の普及、日清戦争・日露戦争の勝利、さらには軍隊で支給される食事が当時の貧困層の生活レベルから見れば良質で、有料だが酒保が置かれたという俗な理由もあり、組織的な抵抗はなくなった。しかし徴兵忌避の感情は自然の感情であるので、さまざまな徴兵忌避対策が庶民レベルで繰り広げられた。創設当初にあった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、1889年(明治22年)に大改正が行われ、ほぼ国民皆兵制となった(ただし、中等学校以上の卒業後に志願したものは現役期間を1年としたり、師範学校を出て教員になったものは現役6週間とするなどの特例があった)。逆に徴兵が免除される者が少数派になると、かえってそれが不名誉とみなされるようになった。 なお徴兵令の適用年代には地域差がある。本土では1873年(明治6年)だが、小笠原諸島・北海道では1887年(明治20年)、沖縄本島では1898年(明治31年)、先島諸島では1902年(明治35年)になるまで徴兵はなかった(例えば沖縄出身で日清戦争に従軍した者は全て志願である)。1896年1月1日、北海道のうち渡島・後志・胆振・石狩に徴兵令が施行された(勅令)。このため,例えば鈴木梅太郎や夏目漱石のように、徴兵逃れのために本土から沖縄や北海道へ転籍する者もいた。 1927年(昭和2年)、徴兵令を全部改正し、兵役法(昭和2年4月1日法律第47号)が制定された。
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