日本、長崎へとは? わかりやすく解説

日本、長崎へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 08:42 UTC 版)

チャニング・ウィリアムズ」の記事における「日本、長崎へ」の解説

日米修好通商条約調印され日本開国する状況下、米国聖公会の遣清宣教師であるエドワード・サイル米国総領事タウンゼント・ハリス米国聖公会信徒)から日本への宣教勧告情報得た米国聖公会が、日本での伝道学校開設医療活動目的とする日本ミッション開設決定する。この決定受けて中国活動するウィリアムズとリギンズが日本派遣されることとなった。リギンズがマラリア療養兼ねてウィリアムズより早く1859年5月長崎来日し翌月1859年6月)、ウィリアムズ米国軍ジャーマンタウン号で長崎来日したウィリアムズは、同じく遣清宣教師エドワード・サイル家族病気のため日本への出発遅れたであった来日したリギンズは、長崎奉行要請から早速、長崎通詞たちに教師として英語を教え奉行からは3部屋ある家が提供された。ウィリアムズ来日してから、両者長崎崇福寺境内滞在した1859年11月来日したグイド・フルベッキもリギンズとウィリアムズ迎えられ崇福寺同居した。リギンズは英語教育外国書籍頒布など積極的に活動するが、体調回復せず、1860年2月アメリカ帰国したため、米国聖公会としてはウィリアムズのみ日本とどまり活動することとなる。シーボルト交流し1860年7月出島からシーボルト書簡送っている。1860年8月には米国聖公会宣教H.E. シュミット来日し長崎診療所開設するシュミット医療活動傍ら地元医師西洋医学と英語を教えた1861年7月には、ウィリアムズシュミット整備され東山手居留地に居を移したウィリアムズ東山手居留地五番館住んだシュミットの住む四番館に隣接する三番館にはフルベッキ居住したシュミットの高度な医療評判となるが、シュミットもまた疲労から体調崩し1861年11月日本離れたウィリアムズシュミット帰国残念に思いその後米国聖公会医療活動重要性訴えている。このことは、後に米国聖公会設立した聖バルナバ病院聖路加国際病院立教大学への医学部開設動きにも繋がっている。ウィリアムズ長崎漢方医笠戸順節とも交流している。ウィリアムズ来日した直後日本ではキリスト教禁止されていたが、教育活動だけは許可されており、長崎奉行から要請もあり、ウィリアムズ洋学所などで英語を教えたまた、ウィリアムズはいつかキリスト教解禁されるときのために、熱心に日本語勉強し、また聖書聖歌祈祷書日本語翻訳していた。 (左): 高杉晋作 (中央): 大隈重信 (右): 前島密 1862年10月にはウィリアムズは、ジョージ・スミス主教寄金居留外国人献金によって長崎東山手居留地内に完成した英国聖公会会堂日本最初プロテスタント教会)の初代チャプレンとなる。(2代目チャプレンフルベッキ。)この時期ウィリアムズのもとを高杉晋作訪れ高杉欧米事情教授したまた、ウィリアムズ大隈重信前島密らに英語や数学などの英学教えた前島郵便制度も学ぶが、これが後に日本近代的郵便制度基礎確立に繋がることになる。漢字廃止論ウィリアムズから示唆受けたものであったウィリアムズフルベッキ盟友となり、フルベッキの子供たちはウィリアムズより洗礼堅信を受け聖公会となったウィリアムズはのちに立教大学創設するが、早稲田大学建学者たち(建学の祖フルベッキ早稲田大学創設者大隈重信校長となる前島密)にも大きな影響与えたまた、ウィリアムズはのちに早稲田大学当時東京専門学校)で教鞭をとった谷口藍田とも交流し藍田に英語や海外事情教え藍田からは和漢の学について教え受けた1863年には、肥後藩士で坂本龍馬肥後藩薩長同盟参加させよう画策し荘村助右衛門ウィリアムズの下で学んだ1866年に、荘ウィリアムズから日本人として最初洗礼受けている。この頃長崎では龍馬や荘はじめとする幕末の志士たちが多く活動したウィリアムズフルベッキ当初暮らした崇福寺志士たちも利用した料亭花月のある丸山ウィリアムズフルベッキその後暮らした東山手居留地志士たちに艦艇銃器を提供販売し亀山社中とも取引行ったトーマス・グラバーグラバー商会グラバー邸は、程近くにあり、海外情報得て学びたい志士たちと、外国人たちコミュニティ出来上がっていた。東山手居留地英国聖公会会堂は、長崎駐在する欧米外国人たち集い礼拝する場所であった教会管理人一人グラバー務めた日本その後の動き決める、話し合いがこの長崎コミュニティなされたと言ってよい。またウィリアムズ訪れ日本人将校は、公式な訪問避けるために、夜間訪れるなど、秘密裏情報交換をしていた。1864年4月にはウィリアムズフルベッキの2名による「日本当局抑圧され日本の”浪人”や長州藩下関戦争」の内容を含むレター米国聖公会海外伝道委員会機関紙取り上げている。

※この「日本、長崎へ」の解説は、「チャニング・ウィリアムズ」の解説の一部です。
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