日本、長崎へ
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「チャニング・ウィリアムズ」の記事における「日本、長崎へ」の解説
日米修好通商条約が調印され、日本が開国する状況下、米国聖公会の遣清宣教師であるエドワード・サイルと米国総領事タウンゼント・ハリス(米国聖公会信徒)から日本への宣教勧告と情報を得た米国聖公会が、日本での伝道、学校開設、医療活動を目的とする日本ミッションの開設を決定する。この決定を受けて、中国で活動するウィリアムズとリギンズが日本に派遣されることとなった。リギンズがマラリアの療養を兼ねて、ウィリアムズより早く1859年5月に長崎に来日し、翌月(1859年6月)、ウィリアムズも米国軍艦ジャーマンタウン号で長崎に来日した。ウィリアムズは、同じく遣清宣教師エドワード・サイルの家族の病気のため日本への出発が遅れたのであった。来日したリギンズは、長崎奉行の要請から早速、長崎通詞たちに教師として英語を教え、奉行からは3部屋ある家が提供された。ウィリアムズが来日してから、両者は長崎の崇福寺の境内に滞在した。1859年11月に来日したグイド・フルベッキもリギンズとウィリアムズに迎えられ崇福寺に同居した。リギンズは英語教育と外国書籍の頒布など積極的に活動するが、体調は回復せず、1860年2月にアメリカへ帰国したため、米国聖公会としてはウィリアムズのみ日本にとどまり活動することとなる。シーボルトと交流し、1860年7月に出島からシーボルトへ書簡を送っている。1860年8月には米国聖公会宣教医H.E. シュミットも来日し、長崎に診療所を開設する。シュミットは医療活動の傍ら、地元の医師に西洋医学と英語を教えた。1861年7月には、ウィリアムズとシュミットは整備された東山手居留地に居を移した。ウィリアムズは東山手居留地の五番館に住んだ。シュミットの住む四番館に隣接する三番館にはフルベッキが居住した。シュミットの高度な医療は評判となるが、シュミットもまた疲労から体調を崩し、1861年11月に日本を離れた。ウィリアムズはシュミットの帰国を残念に思い、その後も米国聖公会へ医療活動の重要性を訴えている。このことは、後に米国聖公会が設立した聖バルナバ病院や聖路加国際病院、立教大学への医学部開設の動きにも繋がっている。ウィリアムズは長崎の漢方医、笠戸順節とも交流している。ウィリアムズが来日した直後、日本ではキリスト教が禁止されていたが、教育活動だけは許可されており、長崎奉行から要請もあり、ウィリアムズも洋学所などで英語を教えた。また、ウィリアムズはいつかキリスト教が解禁されるときのために、熱心に日本語を勉強し、また聖書や聖歌、祈祷書を日本語に翻訳していた。 (左): 高杉晋作 (中央): 大隈重信 (右): 前島密 1862年10月にはウィリアムズは、ジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって長崎・東山手居留地内に完成した英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)の初代チャプレンとなる。(2代目チャプレンはフルベッキ。)この時期、ウィリアムズのもとを高杉晋作が訪れ、高杉に欧米事情を教授した。また、ウィリアムズは大隈重信、前島密らに英語や数学などの英学を教えた。前島は郵便制度も学ぶが、これが後に日本の近代的郵便制度の基礎確立に繋がることになる。漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けたものであった。ウィリアムズとフルベッキは盟友となり、フルベッキの子供たちはウィリアムズより洗礼、堅信を受け聖公会員となった。ウィリアムズはのちに立教大学を創設するが、早稲田大学の建学者たち(建学の祖フルベッキ、早稲田大学創設者の大隈重信、校長となる前島密)にも大きな影響を与えた。また、ウィリアムズはのちに早稲田大学(当時、東京専門学校)で教鞭をとった谷口藍田とも交流し、藍田に英語や海外事情を教え、藍田からは和漢の学について教えを受けた。1863年には、肥後藩士で坂本龍馬と肥後藩を薩長同盟に参加させようと画策した荘村助右衛門もウィリアムズの下で学んだ。1866年に、荘村はウィリアムズから日本人として最初の洗礼を受けている。この頃の長崎では龍馬や荘村をはじめとする幕末の志士たちが多く活動した。ウィリアムズ、フルベッキが当初暮らした崇福寺と志士たちも利用した料亭花月のある丸山、ウィリアムズ、フルベッキがその後暮らした東山手居留地、志士たちに艦艇や銃器を提供販売し、亀山社中とも取引を行ったトーマス・グラバーのグラバー商会やグラバー邸は、程近くにあり、海外の情報を得て学びたい志士たちと、外国人たちのコミュニティが出来上がっていた。東山手居留地の英国聖公会会堂は、長崎に駐在する欧米の外国人たちが集い礼拝する場所であった。教会管理人の一人をグラバーが務めた。日本のその後の動きを決める、話し合いがこの長崎のコミュニティでなされたと言ってよい。またウィリアムズを訪れる日本人の将校は、公式な訪問を避けるために、夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をしていた。1864年4月にはウィリアムズとフルベッキの2名による「日本の当局に抑圧された日本の”浪人”や長州藩の下関戦争」の内容を含むレターを米国聖公会海外伝道委員会が機関紙に取り上げている。
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