新セネターズとは? わかりやすく解説

新セネターズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 03:34 UTC 版)

オタワ・セネターズ」の記事における「新セネターズ」の解説

NHL1992-1993シーズンリーグ加盟チーム拡張計画したが、競合するいくつも候補地がしのぎを削った。これに先立つ1989年からチームオーナー、ブルース・ファイアストン (Bruce Firestone) は、旧セネターズ最後生き残りであるフランク・フィニガン (Frank Finnigan) を前面押し立てて精力的な招致運動展開した。これにより、新生セネターズ2つのうち1つを見事獲得し残り一つタンパベイ・ライトニング割り当てられた。)、1992年からNHL参戦することとなったセネターズ企ては、ある意味で一か八かの大博打とも思われるもので、間もなくチーム財政的な問題表面化したファイアストンは、加盟金5,000ドル調達するために借金をするといった問題抱えていた。また、チーム管理部門は、新スタジアム建設のための資金繰りどうするかで数年間頭悩ませ続けたチームは、オンタリオ州政府から新たなインターチェンジ建設のための資金拠出さえ断られるなど、政府からは何の財政的支援も受けることができなかった。 1993年8月17日になって借金返済期限守れ返済見込みが立たなくなったブルース・ファイアストンはオーナー辞任チームハイテク企業大立者であったロッド・ブライデン (Rod Bryden) が引き継いだ。 この1年後、ロッド・ブライデンは、パラジウム (Palladium) と呼ばれるアリーナ建設のために、1億8,800ドル資金調達行った。このスタジアムは、よくデザインされアリーナとして広く認められる一方で建設始まってからずっと交通の便悪い点批判されてきた。このアリーナは、オタワからはるか西の郊外にあり、オタワ東部やウタウエ(Outaouaisオタワ川対岸ケベック州ガティノー地名)などから長時間かかる。また、試合があるときには頻繁に交通渋滞が起こる問題があり、前述問題相まって試合終了後祝勝ムード維持するのを困難なものとする場合がある。 また、タンパベイ・ライトニング(このフランチャイズは、招致の折に他の有力な候補地考えられていたフロリダ州 セント・ピーターズバーグ(Saint Petersburg)に打ち勝ったのであるが、これはNHL の名選手であったフィル・エスポジトリーダーシップに負うところが多かった。)とともにスター選手を欠くために広告宣伝活動があまり上手とはいえないということもある。 新セネターズは、NHL 第1戦目を、プロホッケーのアリーナ標準としては小さい、収容人員9,862名のオタワ・シビックセンターで戦いモントリオール・カナディアンズ相手に5対3勝利を収めた痛ましいことに、新チーム活動始め前に招致尽力したフィニガンはこの世去った。この初戦のカナディアンズに対す勝利新チームにとって最大栄光瞬間であったといえ、1992-1993シーズンにはリーグ最多70敗を喫しこの後も数シーズン渡って苦難の道程は続いた1995-1996シーズン1月には新セネターズにとって大きな2つ出来事起こった1つは、ジャック・マルタン (Jacques Martin) がヘッドコーチ就任したこと、もう一つは新アリーナへの移転である。この、18,500席を有する パラジウム(後にコーレル・センターと改称する。)は、オタワ郊外カナタにある。この年は、凡庸な成績しか残せなかったセネターズであるが、これから目を見張るような転換見せようになったスウェーデン人FWダニエル・アルフレッドソンは、新セネターズ初のカルダー記念賞受賞した。そして、1996-1997シーズンには、初のプレイオフ進出果すバッファロー・セイバーズ対戦しスリリングな第7戦で敗退)。また、1997-1998シーズンには、第6戦でニュージャージー・デビルス下してプレイオフ勝利を上げた1999-2000シーズン間中チームとアレクセイ・ヤシンの契約を巡るトラブルは、暗礁に乗り上げたヤシンシーズン通じて契約保留し続けたが、このときはセネターズでもう一年プレーする義務があるとの裁定出たレギュラーシーズンでは、チーム93ポイント上げ第2位となったが、プレイオフではトロント・メープルリーフスに2勝4敗と早々姿を消したヤシンは、2000-2001シーズンセネターズプレイしたが、2001年の夏にニューヨーク・アイランダーズトレード移籍した。このときの交換条件は、選手がジノ・チャラ (Zdeno Chara) 及び Bill Muckalt に アイランダーズのドラフトにおける第1、第2順位指名であり、セネターズはこの権利をジェイソン・スペッツア獲得使用した。このシーズンは、またもプレイオフ第1ラウンドで、メープルリーフスに敗退する。このシリーズではメープルリーフスのゴーリー、カーティス・ジョゼフ (Curtis Joseph) に得点阻まれて4連敗いいところなく終えた2001-2002シーズンは、94ポイント上げ第3位につけたプレイオフでは、フィラデルフィア・フライヤーズ勝利しチームプレイオフでの2勝目上げたがまたも7試合の末に宿敵メープルリーフスに黒星喫したセネターズ2003年1月9日長年にわたる赤字累積により破産宣告申請行ったその後NHL からの緊急財政支援を受けレギュラーシーズンでの対戦継続された。こういった、リンク外でのトラブルにも拘わらず2002-2003シーズンには、113ポイント成績残しリーグ最高成績収めたチーム与えられる会長賞 (President's Trophy) を受賞している。そしてプレイオフでは、ニューヨーク・アイランダーズフィラデルフィア・フライヤーズ連破したが、スタンレー・カップ決勝進出目前にして、ニュージャージー・デビルス前に涙を飲んだ(デビルスはこの年カップ優勝)。 2003年9月に、チーム医薬品メーカーEugene Melnyk 社に買収された。 新セネターズは、創設毎年プレイオフ進出果しているが、その成績はあまり芳しいものといえない。中でも、メイプルリーフスには3年連続敗北喫しており、両チームライバル関係拍車をかけた。さらに、2003-2004シーズンプレイオフでは、過去5年間で4度目となる対メープルリーフス敗北重ねセネターズにはこのオンタリオ州本拠地を置くライバル対す勝利を求めプレッシャー強くなった。 この敗北から2日後コーチジャック・マルタン解任された。マルタンは、セネターズコーチ8年務め多くの者から尊敬集めレギュラーシーズン 34125596引き分け記録し8度プレイオフ進出果し多くの者からセネターズリーグ屈指のチームとするコーチとして期待をされた。しかし、プレイオフ12戦で8敗の成績から、チーム首脳部は新コーチ招聘決断したのである。 こうして2004年6月8日、ブライアン・マリー (Bryan Murray) がチーム5代ヘッドコーチ就任したその後2004年から2005年のNHLロックアウト終結後2005-2006シーズンは、デトロイト・レッドウィングスからフリーエージェント獲得したドミニク・ハシェック(Dominik Hasek)や、マリアン・ホッサ(Marian Hossa)らを放出して獲得したダニー・ヒートリー(Dany Heatley)などの活躍カンファレンス1位を獲得した。しかし、プレーオフではあっさりと負けてしまった。 2006-2007シーズン前にハシェックなどが抜けて大幅戦力ダウンといわれたものの、スタンレーカップ決勝まで進出アナハイム・ダックスに1勝4敗で敗れ去った

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